昨日イブの集いでは、オスカー・ワイルド「幸福の王子」の紙芝居のあと、ピリピ書2章を解き明かしました。こちらにあります。幸福の王子は、キリストを表しています。ではツバメは誰を表しているのでしょうか。
よかったら、こちら↓をご覧ください。
キリストと幸福の王子の話を準備するうちにアフガニスタンの人々のために生涯をささげ、12月2日に銃撃された中村哲医師を思い浮かんでしかたありませんでした。
ある物事の現在における意味というのは、その本来の意味と、歴史の中で付け加えられてきた意味とが合成されたものである。その意味が付け加えられたのが、3日前とか、せいぜい1年ほど前までというならば、「本来、これはそういう意味ではないのです。」という議論も通用するであろうが、数十年、百年も前にその意味が付け加えられ、社会的にもその意味が認知されてしまうならば、「本来、これはそういう意味ではないのです。」などという議論をすることはナンセンスであろう。
同様に、<君が代は本来古今集ではお祝いの歌だったのだ。だから天皇の御代が長く続くようにと称える歌ではない。>などという主張は浅はかと いうほかない。ケント・ギルバートという人が、どこかで聞きかじったらしいその種の議論を引用していたので、考えたところをちょっとメモしてみる。
ケントさんは、先の時代に軍国主義者が天皇賛美の歌の意味をくっつけたとしても、もともとお祝いの歌なんだから、反対するのはばかげているというのである。確かにこれはお祝いの歌ではあるが、中身は「じいさん、長生きしてね。」という長寿の祝い歌である。では長寿の祝いのとして歌えばよいだとすれば、どうなるか?長寿の祝いなら、学校の卒業式やお相撲の始まりやオリンピックで歌うのは場違いである。むしろ、それぞれのお誕生日に、各家庭で、ハッピーバースデトゥーユーの代わりに歌えばいい。バースデーケーキを囲んで「きーみーがーよーは・・・♪」って歌って、最後にロウソクを吹き消すのだろうか。シュールである。だが、ありえないだろう。こんな話を聞いて「不敬だ」と怒り出す人は、実際には君が代の「君」は天皇陛下であると認めているわけである。
ちなみに、古今集のその詠み人しらずの歌はちょっと言葉が違っていて、「わが君は千代に八千代に・・・」である。それを明治になって、1869~80年ころ「天皇の治世が長く続くように」という意味の歌にふさわしく歌詞も「君が代は千代に八千代に・・・」と改変したのである。だから、この変更の時から、長寿の祝い歌ではなくなったというのが事実である。これはウィキペディアをちらっと見ればわかることである。
しかも、それが天皇が現人神とされた国家神道体制の中でなされたことなので、大戦後になってもある人々は「天皇を神のようにたたえていることになるんじゃないか?」と不安を感じたり、あるいは、主権在民つまり「民が君主である」という建前の憲法下では不適切なんじゃないかと思う人も当然いるわけである。しかし、ある人たちは戦後の憲法で天皇は国民の統合の象徴なんだから、国民の統合つまり国民がずっと仲良くやっていけるようにという意味で歌えばいいのだと、何も問題を感じないも人もいる。・・・いや大半の人は、みんなが歌っているから歌っているだけだろう。だが、なんとなく感動して歌っていたり、同調圧力に負けていやいや歌っている人もいるだろう。これが実態ではなかろうか。
「国民統合の象徴である天皇の御代が長く続くように」というのが、素直に読んだ戦後風の君が代の意味であろう。しかし、君が代は統合より分裂の原因になってしまっているのは残念なことである。昭和憲法ができた時、いっしょにそれにふさわしい国歌を用意すればよかったのだろう。私などは「さくら」がいいような気がするのだ。
「さくら さくら やよいの空は
見渡すかぎり かすみか雲か
にほひぞ いづる
いざや いざや 見にゆかん」
国風文化が誕生した平安期の歌のイメージで、いたって平和な歌、日本の伝統に根ざす歌である。
ちなみに、「世界中の人々は自国の国歌を誇りをもって歌っているのだ」と、テキトーなことを言う人がいるが、嘘である。フランス国歌ラ・マルセイエーズは、その内容があまりにも血なまぐさいために、歌うことを拒否するフランス人はたくさんいるようである。
今日はクリスマス礼拝。昨日の夜から雪が降って、5センチほどでしょうか積もったので、雪かきをしなければと今朝出かけたのですが、会堂回りはきれいに雪かきがしてありました。いつも雪かきをしてくださるH兄に聞いても、T兄に聞いても、そうではないというので、いったいだれが雪かきをしてくれたんだろうと謎でしたが、しばらく休んでいるY君がしてくれていたということでした。でもY君は、雪かきのあと、風邪の症状がひどくなってお休みになってしまいました。
朝礼拝ではヨハネ福音書1章から「神は人となった」。持ちより愛餐会は腕によりをかけて用意された美味しいものをいただきました。そして、午後の祝会。「もろびとこぞりて」賛美に始まって、子ども会部でけさ練習した輪唱「うれしいうれしいクリスマス」。「イエス様が来た!」というおもしろい伝言ゲーム。ちょっと説明するのがやっかいなのですが、二つのチームに分かれて、その行ったり来たりして進む伝言のスピードをきそうゲームでした。そのあと、登場人物をあてる無言劇、手品なども出てきてとっても面白いのです。今日も不思議なものを見せていただきました。
そうそう若い日のふしぎな賛美をきかせてくださった姉妹がいました。もしなれるものならダビデになりたい、もしなれるものならマリアになりたい、もしなれるものならペテロになりたいという賛美でした。・・・私は、鼻笛を吹きました。冬の歌をいくつかと、賛美歌「荒野の果てに」。冬の歌というのは、「冬景色」「冬の星座」「雪の降る町を」「冬の夜」といった唱歌です。そして、賛美「荒野の果てに」。それから女性の会エステル会の日韓中少女から熟女までの「主われを愛す」。
イエス様を信じる兄弟姉妹が無邪気に楽しくできるというのは、実に楽しいものです。詩篇に「はらからむつみて ともにおるは いかによく いかに たのしきかな。さながら こうべに 注がれたる 尊き油のさまに似たり」というのを思い出します。
この記事では、
第一に先の福島第一原発事故があったにもかかわらず、今私たちがとりあえず生活できているのは、原発がさほど危険なものでなかったわけでも、対策がそれなりに効果があったからでもなく、実に、まったくの2つの偶然によってそうなっただけであること。
第二に、日本の原発の耐震基準は一般住宅よりも驚くほど低いということが書かれています。
良心と理性をもって、その事実を認識し自分の頭で考え、理に適う判断をした二人の裁判官は、差し止め判決を出したのです。
福島第一原発の事故が起きてからこのかた、全国各地で提起された原発訴訟で、原発の運転を止める判決を出した裁判長はたった二人である。
そのうちの一人、元福井地裁裁判長、樋口英明氏は、12月1日に兵庫県内で行った講演で、なぜ裁判所が原発に「ノー」を突きつけたか、その理由を理路整然と語った。
静かな語り口に、迫力を感じ、筆者は思った。ひょっとしたら、福島第一原発事故のほんとうの怖さを、政府も、原子力規制委員会も、電力業界も、そして大半の裁判官も、わかっていないのではないか、あるいは、わかろうとしていないのではないかと。
「二つの奇跡」を樋口氏はあげた。それがなかったら、東日本は壊滅状態となり、4,000万人が避難を余儀なくされたかもしれないのだ。
樋口氏は2014年5月21日、関西電力大飯原発3・4号機の運転差し止めを命じ、2015年4月14日には、関西電力高浜原発3・4号機について再稼働差し止めの仮処分を認める決定を出した。電力会社にとっては“天敵”のような存在だった。
樋口氏は原発について、しっかりと情報を集め、冷静に分析したうえで、確信を持って運転停止の判断をしていた。
まず、福島第一原発が、どれくらいの地震の強さを受けたのかを把握しておこう。800ガルだ。震度でいえば6強。
この揺れで、火力発電所と電線でつながっている鉄塔が折れ、外部電源が遮断された。地下の非常用電源は津波で破壊された。800ガルの地震が原発に及ぼす影響の大きさを記憶しておいていただきたい。
福島第一原発は電源のすべてを失った。稼働中だった1、2、3号機はモーターをまわせなくなって、断水状態となり、蒸気だけが発生し続けた。水の上に顔を出したウラン燃料は溶けて、メルトダウンした。
4号機でも空恐ろしいことが起きていた。定期点検中で、原子炉内にあった548体の燃料すべてが貯蔵プールに移されていたため、合計1,331体もの使用済核燃料が、水素爆発でむき出しになったプールの水に沈んでいた。
使用中の核燃料なら停電すると5時間でメルトダウンするが、使用済み核燃料はエネルギー量が少ないため4、5日かかる。しかし、使用済み核燃料のほうが放射性降下物、いわゆる「死の灰」はずっと多い。もし、4号機の使用済み核燃料が溶融したらどうなるか。
菅首相の要請を受けて、近藤駿介原子力委員長が、コンピューター解析をさせたところ、放射能汚染で強制移住が必要な地域は福島第一原発から170km、任意移住地域は250kmにもおよび、東京都の1,300万人を含め4,000万人を超える人々が避難民になるという、恐怖のシナリオが想定された。
不幸中の幸いというべきか、4号機の燃料貯蔵プールは偶然、大量の水によって守られた。ふだんは無い水がそこに流れ込んできたからだ。
原子炉圧力容器の真上に「原子炉ウェル」という縦穴がある。ちょうど燃料貯蔵プールの隣だ。ふだん、このスペースに水は入っていない。
だが、定期点検中だった事故当時、「シュラウド」と呼ばれる隔壁の交換を水中で行う作業が遅れていたため、原子炉ウェルと隣のピットは大量の水で満たされたままだった。そして、そこから、水が隣の燃料貯蔵プールに流れ込んだのだ。
樋口氏は語る。「原子炉ウェルと貯蔵プールは別のプールです。水が行き来することはない。だけど、仕切りがズレた。地震のせいでズレたのか、仕切りが、たまたま弱くて、ズレたのかわからない。入ってきてはいけない水が入ってきた」。
ふだんは無い水がそこにあり、入るべきではないのに侵入した。おかげで、4号機プールの燃料は冷やされ、最悪の事態は免れたというわけだ。このめったにない偶然。「4号機の奇跡」と樋口氏は言う。
もう一つの「奇跡」は2号機で起きた。2号機はメルトダウンし、格納容器の中が水蒸気でいっぱいになり、圧力が大爆発寸前まで高まった。圧力を抜くためにベントという装置があるが、電源喪失で動かせない。放射能が高すぎて、人も近寄れない。
当時の福島第一原発所長、吉田昌郎氏は、格納容器内の圧力が設計基準の2倍をこえた3月15日の時点で、大爆発を覚悟した。のちに「東日本壊滅が脳裏に浮かんだ」と証言している。
ところが不思議なことに、そういう事態にはならなかった。水蒸気がどこからか抜けていたのだ。
「多分、格納容器の下のほうに弱いところがあったんでしょう。格納容器は本当に丈夫でなければいけない。だけど弱いところがあった。要するに欠陥機だったために、奇跡が起きたんです」
福島第一原発事故の放射能汚染による帰還困難地域は、名古屋市域とほぼ同じ広さの337平方キロメートルにおよぶ。それだけでも、未曾有の人災である。しかし、二つの奇跡がなかったら、被害は国の存亡にかかわるほど甚大だったはずだ。
たまさかの工事の遅れと設備のズレで4号機プールに水が流れ込んだ。2号機の原子炉の欠陥部分から蒸気がもれ、圧力が逃げた。本来ならマイナスである二つの偶然が、奇跡的にプラスに働いた。あのとき、日本の命運は、かくも頼りないものに寄りかかっていたのである。
樋口氏が言いたいのは、原発がいかに危険であるか、もっと知ってほしいということだ。めったに起こらないことが起こっただけと高をくくってはいけない。原発がある限り、日本が崩壊する危険性と隣り合わせであることを自覚してほしいということだ。
「二つの奇跡」の話、知っている国民がどれだけいるだろうか。そして、原発の耐震設計基準は、大手住宅メーカーの耐震基準よりはるかに低いことを知っているだろうか。
福島第一原発事故では800ガルの揺れが外部電力の喪失を引き起こした。800ガルといえば先述したように震度6強クラスだ。その程度の地震は日本列島のどこで、いつなんどき起こるかしれない。
- 鳥取県西部:6強
- 宮城県北部:6強
- 能登半島沖:6強
- 新潟県上中越沖:6強
- 岩手県内陸南部:6強
- 東北地方太平洋沖:7
- 長野県・新潟県県境付近:6強
- 静岡県東部:6強
- 宮城県沖:6強
- 熊本:7
- 北海道胆振東部:7
- 山形県沖:6強
これだけある。
ガルで表せば、もっとわかりやすい。大阪府北部地震は806ガル、熊本地震は1,740ガル、北海道胆振東部地震は1,796ガルを観測している。
三井ホームの耐震設計基準は5,000ガル。すなわち5,000ガルの揺れに耐えるよう設計されることになっている。住友林業の耐震設計基準は3,406ガルだという。
それに対して、原発の耐震設計基準はどうか。大飯原発は当初、405ガルだった。なぜか原発訴訟の判決直前になって、何も変わっていないにもかかわらず、700ガルに上がった。コンピューターシミュレーションで、そういう数値が出たと関電は主張した。
たとえ700ガルまで耐えられるとしても、安心できる設計ではないのは、これまで述べてきたことで明らかであろう。
樋口氏はため息まじりに言った。
「原発は被害がでかいうえ、発生確率がものすごく高い。ふつうの地震でも原発の近くで起これば設計基準をこえてしまう。電力会社は400とか700ガルの耐震設計基準で良しとして、大飯原発の敷地に限っては700ガル以上の地震は来ませんと、強振動予測の地震学者を連れてきて言わせる。信用できないでしょ。“死に至る病”を日本はかかえているんです」
首相官邸の影響下にある最高裁事務総局の意向を気にする“ヒラメ裁判官”がはびこるなか、政府の原発再稼働政策に逆らう判決を繰り返した気骨の裁判官は、原発の危険性について、ここまで掘り下げ、分析したうえで、結論を出していたのだ。
2014年5月、樋口氏が福井地裁の裁判長として大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じたさいの判決文にはこう書かれていた。
人の生命や生活のほうが、経済活動の自由より大切であると、日本国憲法を根拠に断定した根底には、「原発は被害がでかいうえ、発生確率がものすごく高い」という樋口氏の認識があった。
「3.11の後、原発を止めたのは私と大津地裁の山本善彦裁判長だけ。二人だけが原発の本当の危険性をわかっていた。ほかの人はわからなかった。それだけのことです」
原発はどこも400ガルとか700ガルとかいった低い耐震基準でつくられているが、いまや日本列島全体が、それを上まわる強さの揺れの頻発する地震活動期に入っている。にもかかわらず、経産省・資源エネルギー庁シンドロームにおかされた政府は、電源構成に占める原子力の割合を2030年に20~22%まで復活させるプランを捨てていない。
繰り返しになるが、安倍首相ら政権中枢は、原発のほんとうの怖さをいまだにわかっていない、と断定するほかないだろう。国を滅ぼさないために、憲法改正より先にすることがある。原発ゼロ方針を内外に宣言し、実現のために一歩を踏み出すことである。
iMAG2NEWSより
こないだの主の日の朝、ぎっくり腰になりそうな気配がしたので、「冷えたかな」と思って、ホッカイロを腰にあてて過ごしたら、余計に悪くなってきて夕方ころには、「まずいなあ。あした東京に行けるかなあ。行ってもかえって来られるかなあ。」という状態になりました。
もしかしたらすでに炎症を起こしていたのでは?と思って、今度はお風呂に入った後、冷シップをして寝たら、月曜朝、ほぼ大丈夫になっていました。もう一回冷シップを貼って出張してきましたが、まずまず大丈夫。で、炎症が収まったら温シップがいいんです。
冷えると筋肉が固くなりますから、温かくするのはぎっくり腰予防になりますが、すでに炎症を起こしている場合、暖めたら余計に悪くなります。当たり前のことですが、今回はちょっと見極めが難しかった。
昨晩は、妻と北海道聖書学院のクリスマス会に行ってきました。昨年は大雪で難渋しましたが、今年はまったく雪がありません。こんな冬は、道産子の人たちに聞いてみると「生まれて初めて」だそうです。
クリスマス会は学院の食堂で学生たちがすべて準備してくれて行われました。このやり方が、「伝統」のようです。賛美の時、食事の時、出し物の時というプログラム。珍しいことはないのですが、ともにキリストを愛する者たちの集いは、なんとも言えず楽しい者でした。妻は、昨年、このクリスマス会に出てから、楽しみになったようです。
テーブルの話題の中で、どういわけか生卵の話になり、「卵の白身は気持ち悪いという記述がヨブ記にありました」というと、そんなみことばあったっけと盛り上がりました。
ありますよ。ヨブ記6章、6,7節
「味のない物は塩なしに食べられるだろうか。卵の白身に味があるだろうか。
私の喉はそれを受けつけない。それらは私には腐った食物のようだ。」
私は小さいころからヌルッとした卵の白身が苦手なんですが、ヨブ記でこの一節を見出したとき、義人ヨブも仲間だったんだと意を強くした次第です。
ところが、今しがたこの「卵の白身」と訳されたことばを調べてみると、英訳聖書には「the sap of the mallow(アオイの樹液)」と訳しているものもあります。もちろん卵の白身という訳もあるのですが。卵、アオイと訳されたことばは「ハルラムート」といいますが、聖書の中に1回しか用例がないとのこと。やっぱりよくわからないんですね。ヨブ記ほど古い書物となると、よくわからんことばがあるわけです。ハルラムートはスベリヒユのことだろうとストロングの辞書にはあります。ますますわからない。スベリヒユは山形県でふつうに食べるものですが。それにしても「卵の白身」という多くの翻訳聖書が採用している訳語は誰から始まったのでしょう。ウルガタではありません。ウルガタには「食べたら死ぬようなもの」となっています。英国欽定訳聖書KJVではすでに卵の白身となっています。
私のように、卵の白身が苦手な聖書翻訳者が、苦し紛れに「卵の白身」と訳したのかもしれませんねえ。KJVが参照したルター訳を見ると、すでに「卵の白身」となっています。カトリックではウルガタでしたから、ここはルターが「塩気のなくて食べにくい食べ物ってなんだろうな?・・・あ、卵の白身だ。あれは許せん!」とか思いついて、こんなふうに訳したんかなあ。カルヴァンならやりそうもないけれど、ルターならなんとなく可能性があるんじゃないかと思えるところが面白い。宗教改革について、エラスムスが卵を産み、ルターがそれをかえしたとよくいうけれど、彼が卵の白身が嫌いだったとしたら、なんだかおもしろい。