苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく

 新改訳聖書における主の祈りの翻訳で前から気になっていることは、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ」と文語訳ではあった「ごとく」が訳出されていない点です。新改訳2017でも改められませんでした。ギリシャ語本文には、ホース(ごとく、ように)という比例を示す語があるのに、なぜ訳出しないのでしょう。
 おそらく人を赦すという行為を根拠として、神に罪を赦してもらうという功績主義の誤解を招かないためという、翻訳委員会の行き過ぎた配慮のためだと、私は推測しているんです。
 山上の説教の中には、主の祈りの直後には、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。・・・」とあり、また7章では、「さばいてはいけません、自分がさばかれないためです・・・・」と出てくるわけで、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ」と同調する、隣人に対するさばきと、神の私へのさばきが比例するというの思想が一貫して流れています。
 翻訳委員会は、「赦し」には、永遠の取り扱いという意味での赦しと、すでに神の子どもとされた者たちに対する父の取り扱いとしての赦しという、二つのことがあることがわかっていないので、「ごとく」と訳そうとしないのではないかと思います。
 主の祈りは「天にいます私たちの父よ」とあるように、「父よ」と呼んでいるのですから、すでに永遠の取り扱いとしては罪赦され神の子どもとされた者としての祈りです。罪赦され神の子どもとされた者として、父のもとで、祈るたびに赦すことを学びなさいと言われているのが、この主の祈りでしょう。