苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

キリストの手紙   (聖霊について、その2)

エレミヤ31:31-33、エゼキエル11:19、20 2コリント3章1-18節

 
1 約束の聖霊

 神が、世界を造られたときに、「それは非常によかった」と書かれてあります。実際、私たちは、この五月の美しい山々を見たり花々を見てすばらしいなあと思います。しかし、同時に、この世界は病気、犯罪、自然災害、そして戦争など多くの問題を抱えていることを知っています。それは、聖書によれば、私たちの父祖アダムが堕落したとき以来、被造物全体が虚無に服したからです。
 悲惨に陥った人類と世界とを神様はお見捨てになりませんでした。神様は、救い主(メシヤすなわちキリスト)を遣わすという約束を旧約時代に与えてくださいました。なかでもエレミヤ、エゼキエルは、メシヤが来られたときには、聖霊を神の民に与えてくださるというお約束をくださいました。新約時代には聖霊が神の民つまり教会に注がれるのです。紀元前6世紀の預言です。まずエレミヤ書

「31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エレミヤ31:31-34

 エゼキエルは次のように預言しました。

「11:19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。
11:20 それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」エゼキ11:19,20

 エレミヤ書エゼキエル書の告げる内容は二つあります。
第一のメッセージは、神様の人間に対する契約の主題である「わたしはかれらの神となり、彼らはわたしの民となる」です。私たちの救いというのは、ぎりぎりまで煮詰めれば、みなしごのようになっていた私たちを、神様がわが子としてくださり、特別の愛を注いでくださるということなのです。そうして、神とともに歩む人生をともに生きるということです。
 第二のメッセージは、神様は、新しい霊、つまり、聖霊を民にお与えになることによって、神様の律法を硬い石の板ではなく、やわらかい肉の心に書き記してくださる、ということです。旧約時代には、石の板に刻まれた律法は人の外にあって外から人を規制しようとしました。いっぽう、新約時代には聖霊は人の中、その肉の心に神様のみこころである律法を刻んでくださるのだというのです。新約の時代には、イエス様を信じる人のうちには聖霊によって新生が起こり、人格の土台にあたる心に根本的な変化が生じますから、内発的に律法の求めることを行ないたいと望む性質が与えられます。
 この約束の成就として、2コリント3章の手紙のことばが記されています。


2.あなたはキリストの手紙です

「3:1 私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。
3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。
3:3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

 コリント教会の人々は、パウロのことを「ああだ、こうだ」と批評していたようです。パウロ先生はエルサレムにいるペテロ先生をはじめとする先生たちみたいに、イエス様がこの世におられたときには直弟子ではなかったというじゃないかとか、いろいろなことを言っていたのでしょう。そういう批評に対して、「どうしてあなたがたに信用されるために、あなたがた宛ての推薦状が必要であろうか。また、あなたがたに私が推薦されて信用を得なければならないなどということがあるだろうか」とパウロは言うのです。
 「私たちの推薦状はあなたがたです。」とパウロは断言します。なぜなら、パウロはコリント教会を開拓伝道して、生み出したその人であるからす。コリント教会の兄弟姉妹たちは現にパウロが宣べ伝えたキリストの福音によって生み出されたのですから、もしコリント教会がパウロのことを否定するならば、コリント教会は自らを否定することになるのです。君たちが、このパウロの福音は本物ではないというなら、君たちコリント教会の兄弟姉妹は本物でないことになるのだよ、と言っているのです。
 パウロは自分のキリストの使徒としての資格は、他の人々にうんぬんされる必要はないと断言します。それは彼がダマスコ途上でキリストご自身から受けた資格であるからです。

3:4 私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。
3:5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。


ところで、「あなた方はキリストの手紙です」ということばは、あなたにも語りかけられていることばです。ドキリとするでしょう。あなたという手紙は「すべての人に知られ、また読まれているのです。」私たちの家庭における、地域における、職場における存在はキリストの手紙です。私たちの日常の言葉、行動はキリストの手紙なのです。責任重大ですよ。悔い改めねば、と思います。けれども、自分のがんばり自分の修行によってではなくて、確かにイエス様を信じる人のうちには、聖霊によってキリストが刻まれているのです。


3 新しい契約と古い契約

 では、聖霊は新しい契約にもとづいて私たちどんなことをしてくださり、どんなキリストの手紙としてくださったのでしょうか。パウロは、それを、旧約と対比しながら明らかにしています。

3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、
3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。
3:10 そして、かつて栄光を受けたものは、この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。
3:11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。

(1)石の板から肉の心に
 古い契約に仕える務めは、「石に刻まれた文字による、罪に定める、死の務め」であるといわれています。これに対して、新しい契約に仕える務めは、「御霊による、義とし、生かす務め」であるといいます。
 紀元前1500年頃、モーセがホレブ山に登りますと、神様は自ら石の板に十の戒めを刻んでくださいました。
「あなたにはわたしの他に他の神々があってはならない。」
「あなたは自分のために偶像を作ってはならない。拝んではならない。仕えてはならない。」
「主の名をみだりに唱えてはらない」
安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ」
「あなたの父母を敬え」
「殺してはならない」
「姦淫してはならない」
「盗んではならない」
「あなたの隣人に対して偽証してはならない」
「あなたの隣人をむさぼってはならない」
 この律法は石の板に刻まれました。これに対して、新しい契約は心の板に聖霊によって書かれたのです。刻まれた律法は同じです。けれども、それが石に刻まれたのか、心の板に刻まれたのかという大きな違いがあります。石の板に刻まれた律法は、その内容は正しくすばらしいものですが、教えられる人々の気持ちとからだがついていきませんでした。
 約束に基づいて与えられた聖霊は、これら十の戒めを私たちの肉の心に刻んでくださいました。そうすると、外側から「あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない」と命じられると、「まったく、そのとおりだ」と納得できるようにしてくださったわけです。石の板に律法が書かれているときには、律法は外にあったのですが、聖霊が律法を心の板に刻んでくださったことによって、神様のきよさの基準である律法が私たちの中に入ってきたのです。ですから、律法にしたがうことは自分の良心の価値基準になったので、従うことが喜びになり、従わないときに良心の呵責を感じるようになったのです。


(2)罪と死に定める務めから、義といのちに定める務めへ
 古い契約に対して新しい契約の新しさ、特徴の第二は、旧約時代の契約が「罪に定め、死に定める」務めであったのに、新約時代の契約は「義に定め、永遠のいのちに定める」という点です。
 旧約時代の新約時代も律法は人を罪に定めます。十戒にまじめに取り組むならば、人は必ず挫折するのです。使徒パウロ自身がそういう経験をしたことをローマ書で告白しています。彼はコチコチのまじめ人間、律法人間でした。驚くべきことに、彼は律法についていえば落ち度はなかったとさえ言っています。敬虔なユダヤ教徒の家に生まれたので、彼はもちろん偶像礼拝をしたことはないし、主の名をみだりに唱えたことも、安息日を一度でも破ったことはありませんでした。父母に悪態をついたこともないし、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するなといったことも、彼は守ってきたという自信がありました。
 ところがパウロは第10番目の戒め「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」という戒めにつまずきました。これは彼の外に現れる行動ではなくて、彼の心の中を抉り出しました。神のことばは、鋭い両刃の剣のようなもので、関節と骨髄、魂と霊の分かれ目さえも刺し通すほどです。パウロは、自分の中に、隣人の妻を欲しがる悪い欲望、隣人の財産や成功をねたましく思う「むさぼり」があることを認めざるを得なくなりました。律法はパウロを罪に定めました。
 旧約の民は罪を犯してしまうと、祭司のところに行って、動物犠牲でもってその贖いをしてもらいました。しかし、それで罪を赦された確信と平安は与えられることはありませんでした。何度いけにえをささげても、罪の赦しと平安を得ることはできません。
 
 これに対して新約の時代の契約は「義に定め、永遠のいのち」を与えるものです。私たちは律法によって、自分の内側に救っている自分ではどうすることもできない罪の現実に気づかされます。新しい契約では、聖霊がその罪の自覚と同時に、主イエスキリストの十字架と復活による罪の贖いの事実を明らかにしてくださいます。
十字架の上で主イエスは、「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」と祈ってくださいました。主イエスは「あなたは確かに神の前に罪ある者だ。だが、このわたしがあなたに代わって、その罪の呪いを罰を受けてあげた。わたしを見上げわたしを信じなさい。そうすれば、あなたの罪は許され、あなたは神の法廷で義とされる。そうして、永遠のいのちに生きることができるのだ。」とおっしゃいます。
ですから、主イエスへの信仰をたしかなものとしましょう。義としてくださり、永遠のいのちを賜るのは主イエスだけです。


4 鏡のようにキリストを映して


 最後に、パウロは、聖霊は私たちを徐々に、ますますキリストに似た者とつくりかえて行ってくださるのだという約束を語っています。

  3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

 旧約に対する新約的信仰の特徴は大胆さです。新約の時代、いけにえは唯一つ、唯一回、イエス・キリストの十字架の死のみです。尊い神の御子が人となられて人の代表として、あの十字架の上に苦しみ死んでくださったのです。罪が贖われない道理がありません。だから、私たち新約時代の伝道者はきわめて大胆に「あなたの罪はキリストにあって赦されました」と断言することができます。「あなたはキリストにあって、神に受け入れられています」と断言することができます。
 こうして、神様との交わりが回復した私たちは、主の御霊によって、主の御顔を仰ぎつつ、徐々に主イエスに似た者として変えられていくのです。

3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」2コリント3:1-18

 鏡はそれ自体が輝きをもつわけではありません。そのように私たち自身も輝きをもっているわけではありません。けれども、鏡は輝くものを映すとき、輝きます。私たちはイエス様のそばにいてイエス様と常に交わっているならば、イエス様の輝きを映して輝くのです。
「朝晩、御顔を仰いでいれば、主の姿に近づけるでしょうか。」とギターの讃美歌にありますね。朝に晩に主の前に静まって、主イエス様とお話してください。あなたはキリストの手紙です。あなたの周囲のすべての人があなたを見て、読んで、キリストを知るでしょう。