苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

イエス様の関心事

12:41イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。 12:42ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。 12:43そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。 12:44みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
13:1イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。 13:2イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。(マルコ12:41−13:2)

ローマ帝国があの広大な版図を統治した手法のひとつは、それぞれの属州のエリートたちとの共同統治という方法だったと、リチャード・ボウカム「イエス入門」という本に書かれていました。イスラエルの場合、傀儡であるヘロデ王家、それから、最高議会を構成するような祭司・学者階級が、ボウカムさんのいうところのエリートたちであるわけです。

 ローマ帝国の属州統治の手法は、かつての英帝国による世界各地の植民地統治、今日の米国による各地の支配に踏襲されていて、戦後日本の統治においても同じことです。この国のエリートたちは、この体制下にあって、既得権益に与っているのですから、米国からの自立を図るといったことをしないのは、あたりまえといえばあたりまえなのです。そして、わが国を米国からの自立させようとする少数の政治家たちは失脚してきました。

 ボウカムが指摘するもうひとつ、確かにそうだなあと思ったことは、ローマ帝国の統治のありかたの本質を福音書は鋭く指摘しているものの、イエスはそうした体制をどうにかするといったことにはほとんど関心を寄せることなく、せいぜいヘロデ・アンテパスを「あの狐」と呼んだ程度のことだということです。主イエスは「神の国」は、貧しい者に福音が伝えられ、足なえが歩き、盲人が目を開かれている、こうしたところに実現しつつあるとされたのでした。
 当時は主権在民という原理がなかったから、庶民が政治的発言をすることには意味がなかったからという説明もできるのでしょうけれども、そういう説明で納得できるかというと私は納得できません。
 イエス様にとっては、ローマよる世界支配と、その下で既得権益にしがみついている高級官僚にあたる祭司階級や学者たちエリートといった人々の不正がどうだということは、まあ、つまらんことだったのでしょうね。どんな巨大建造物の石も、積まれたまま残ることはないから。金持ちたちが見栄半分でありあまるなかからざくざくささげる金貨よりも、貧しいやもめがささげた心一杯のレプタひとつこそ、神の前に永遠に残る価値あるものだから。そういうことなのかなあ、と思います。