苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

内藤新吾先生「原子力問題の深層」


 本日午後は、野沢福音教会で内藤新吾先生の講演を聞く機会を得た。題は「原子力問題の深層」で、多くのスライドを見せていただいて、原発問題の話をしてくださった。
 私は8年ほど前から浜岡原発問題の件で内藤先生と知り合いになり、今年になっていのちのことば社から出版された『キリスト者として原発をどう考えるか』の書評を書かせていただいていたものの、じかにお目にかかるのは初めてだったのである。
 「深層」というのは、わが国政府が原発を始めたこと、そして、今日でもなんとか維持し続けたいと望んでいる理由は、究極のところ、核兵器であるということである。

 講演のあと、野沢の教会の小寺牧師夫妻と内藤牧師と麦茶を飲みながらしたしくお話しすることができた。お話に聞けば、内藤師が幼い日に親に連れられて通っていた西須磨福音ルーテル教会は、どうも私が幼い日に通っていた日本基督教団須磨教会のキリスト教主義幼稚園のすぐ近くの坂の上にあったことがわかった。先生と私は三つ違い。子どものころすれ違ったことがあったかもしれない。


書評:内藤新吾『キリスト者として“原発”をどう考えるか』いのちのことば社
 本書はブックレットでありながら、内容は広くかつ深い。まず原発を考える土台として、神からの使命と人間の貪りの問題、試練の理解、教会の取るべき態度について、聖書から挑戦的な神学的洞察が提供される。ついで、原発を理解するにあたって必須の知識がほぼ網羅的に要を得てしかも具体的に提供される。列挙すれば、原発の耐震性評価の非民主的な現状、被曝労働差別と立地の地域差別、国家権力が原発にこだわるわけは核兵器であること、何十万年にもわたる負の遺産としての核のゴミ問題、そして、最後に原発抜きでも電力は足りている事実と代替エネルギーに関することである。
だが、本書の特質は、多くの情報提供にではなく、二十年前から原発問題に取り組んでこられた著者の、主の弟子としての生が裏打ちされている点にある。著者がこの問題に取り組むようになったきっかけは、ひとりの年老い原発被曝労働者との出会いであった。彼が置かれた過酷な労働環境を聞かされて、著者はこの働きに深く関わらないではいられなくなったのだった。孫請けのさらに孫請けの最下層の労働者たちは、線量計のブザーを止めておかねば作業できないような高線量の被曝環境での作業を強いられて健康を害し、しかも保障も受けられない。人の命を食い物にしなければ成り立たない原子力発電。主イエスならば、この社会の闇に対して、そして苦しむ人々のためどうされただろうか。
「主イエスは、悪のくびきを折り、虐げられた者を解放された。また貧しき者とともに生き、人々の痛みを負い、病を癒された。主は私たちを弟子として、この世に遣わされる。私たちは決して主と同じようにはできないが、主に愛され命をもって贖われた感謝から、できる限り主の願いに応える者でありたい。」本書の結びのこのことばに、著者の原発問題に対する主の弟子としての姿勢がもっとも明瞭に現れている。ぜひ一読をお奨めしたい。