苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

先生は幼な子

                   マタイ18:1-10

1.弟子たちの高ぶり

 「誰が一番偉いのか?」主イエスの十二弟子のなかで、このことはしばしば話題になりました。最初イエス様に弟子として召されて歩み始めたころには、それほどでもないのですが、イエス様の働きが世間の注目を浴びて、ぞくぞくと人々が回りに集ってくるようになり、さらに、これからいよいよエルサレムに上っていくとイエス様が告げられたときから、弟子たちの中で「だれが一番偉いのか?」という議論がしばしばなされるようになったようです。エルサレムという権力の集中した都に上るという意識が、弟子たちのうちに権力欲や野心を引き起こしたのでしょう。1節「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
 「天の御国で」ということばが付いていますから、私たちのイメージでは死後の世界をすぐに思い浮かべてしまいそうですが、マタイ福音書で「天」というのは、神ということばと同義的に使われていますから、「神の国で」という意味です。それは死後の世界ということも含みますが、それだけでなくこの世界であれ次の世であれ「神が支配される王国で」ということです。弟子たちの意識から推論していうならば、「都でイエス様が殿様になって打ち建てる国では、誰が筆頭家老として引き立てていただけるのですか?」という問いを意味していると理解すべきところでしょう。
 主イエスに「わたしについてきなさい」と言われて、家を捨て、お金を捨て、立身出世を捨てて、従ってきた弟子たちにとって、最後の関心事がイエスの王国において自分がどういう席次になるのか、だれが一番偉いのかという名誉だったのでしょうね。
 この種の争い、イエス様に対する問いかけは、エルサレムが近づくにつれてますます多くなってきます。なんとエルサレムにおける最後の晩餐のあの場でも、弟子たちは「誰が一番偉いのか?」と争っていました。神様の御子が、私たち罪ある人間のためにへりくだって人間となり、ついに十字架の死にまで従っていこうとしていらっしゃるのに、誰が出世できるか、だれが一番偉いのかと論じているとは、なんと的外れなことでしょうか?

2.幼な子が先生

 こうした弟子たちに対して、イエス様はひとりの模範を連れてこられました。それは小さな子どもです。「君たちは、私こそ偉い、俺こそ一番だと肩をそびやかしているけれども、君たちが小さな者として見下している、この子どもこそ、君たちの模範であり、君たちの先生だ」とおっしゃるのです。2,3節 「そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。』」
 イエス様のことばはたいへん厳しいものです。第一に、「君たちは自分が天の御国に入れるかどうかということについて悩みもせず、自分が天の御国に入れることは当たり前のことだと思い上がって、そこで誰が一番偉いかなどと言っている。けれども、君たちのように『誰が一番偉いのか?』などと論じているようでは、そもそも天の御国に入ること自体おぼつかないよ。」イエスさまはそうおっしゃっているのです。そして、「悔改めて子供のようになりなさい」と命じていらっしゃいます。
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものです。」と主イエスはおっしゃったではありませんか。心の貧しい者というのは、自分の罪を知り、ただ神のあわれみによってのみ救われうるものなのだと悟って、「神様ごめんなさい。神様、わたしを哀れんでください」とへりくだって求める者のことです。天の御国はそういう人のものであって、「わたしは当然、神の国に入る資格のある立派な人間だ。俺は神の国に入れて当然の人間だ。」と思っている人のものでは決してないのです。まして「神の国では、おれが一番だ。」と争っているようでは、どうみても神の国の住民らしい品性とは言いがたいのです。
 「心の高ぶっている者は不幸です。天の御国は、その人のものではないからです。地獄がその人のものだからです。」
 十二人の弟子たちは驚いたでしょう。何百人もイエス様についてきている人々の中で、自分たちだけは主イエスに直接に声を掛けていただいた特選の弟子であると自負していたからです。その自分たちが天の御国に入ること自体むずかしいと言われたのです。悔改めなさいと命じられたのです。

 イエス様は、小さな子どもを抱き寄せておっしゃいます。4節 「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」神様の御支配される世界では、自分を偉い者だとして高ぶっている者がいちばん偉くない人であって、最もへりくだった者がもっとも偉い者なのです。天の御国で一番偉いのは誰ですか? いうまでもなくイエス様です。神様であられながら、その栄光の御座を捨てて人間となってくださり、そして、あの辱めの十字架の死にまでしたがってくださったイエス様です。天の御国において、もっとも偉いお方があのイエス様なのですから、教会の中で、覇を競って権力闘争などしているような連中がいるとしたら、かりに神の民であるとしても、もっとも偉くない人々であるということになります。
 ことさらに自己卑下をしなさいなどといっているのではありません。謙遜になるということは、人前で虚勢をはって立派そうに見せている自分に酔っ払うのをやめて、ただ聖なる神様の前での自分のありのままの姿を認識することです。神様の前に出たら、誇れると思ったような美点はただ神様の恵みによって託していただいている賜物にすぎないことを悟るでしょう。そして、神様からのさまざまの恵みの賜物を取り除いたら、自分に残っているのは結局罪だけなのですから、どこに誇る理由があるでしょうか。愚かしくも高ぶって人を見下していたことを神様の前に「ごめんなさい」と申し上げて、ただ神様の恵みに感謝する以外なにもすることはないではありませんか。
 「子どものように自分を低くする」とイエス様がおっしゃるのは、そういうことです。幼い子どもには罪がないというわけではありません。幼い子どもにも、罪はあります。ただ、幼い子どもの場合は大人のように立派そうに振舞うことなどできないのです。そのように私たちも世間の目、自分自身の目の前にごまかして飾ることをやめて、聖なる神様の目の前に出たら、自分がどんなに小さくて、惨めな者であるかを知るでしょうし、それにもかかわらず注がれている父なる神様のご愛がどんなに大きなもの、広やかなものであるかに気づくことでしょう。

3.主イエスを受け入れること、子どもを受け入れること

 そうして、イエス様はここで私たち主の弟子が、教会がイエス様を信じる子どもたちを受け入れることがいかに大切なことであるかということを、厳しいほどにはっきりと教えてくださいました。イエス様を信じる幼子を受け入れる者は、イエス様を受け入れるのです。逆に、もし私たちがイエス様を信じる幼い子どもを見下げ、受け入れないならば、そのとき私たちは、イエス様を拒絶しているのです。5節「まただれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」
 しかも、イエス様は「子どもを」と束ねた言い方をなさらないで、「子どものひとりを」とおっしゃいました。子どもを受け入れるというのは、教会において子どもという集団をどう扱うかというという発想ではできないことです。今回気づいたのですが、そもそも「子ども」という言葉自体が、子たちを「ども」扱いする乱暴なことばです。「野郎ども」とか言うではありませんか。やむをえず使いますが、あまりよい言葉ではありません。イエス様を信じるあの子に心を留め、この子に心を留めて、そのひとりひとりの名を覚えて祈ることが必要です。親がわが子の魂のために祈ることは当然です。牧師の祈りのなかに子たちの名が上げられること、祈り会でのとりなしの祈りのなかに子たちの名があげられることがたいせつです。
 「わたしの名のゆえに受け入れる」というのは、ちょっと難しい表現ですが、おっしゃりたいことは、大人のクリスチャンたちはイエス様を信じている子どもたちも、同じくイエスの弟子仲間であるとして受け入れなさいとおっしゃっているのです。「小さな子どもだから、神様のことなどわかるわけがない。うるさい。じゃまだ。」などという態度を取って、子どもをつまずかせるならば、それは「石臼もの」です。6-7節「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。」
 子たちをイエス様の名のゆえに受け入れるというのは、子たちが礼拝中、大騒ぎしていてもやりたい放題させておくべきだなどということを言っているのではありません。そうではなく、イエス様を信じている子をも礼拝者として歓迎しなさい(welcome NIV)という意味です。そのためには、子たちの礼拝者としての訓練が必要でしょうし、また、プログラムの工夫や配慮も必要でしょう。それを面倒がって子どもたちを礼拝から排除してはいけないのです。イエス様が、「ご自分を信じる幼子たちを受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ。」とおっしゃったのです。言い換えると、イエス様を信じる幼子たちを歓迎しない者は、イエス様を拒絶しているのだとおっしゃるのですから、これはたいへんなことです。なんとかして、ともに主を礼拝できるように、工夫をしたり、おたがいに忍耐をすることが大切であろう思います。

 そうして、イエス様は私たちの肉眼には見えませんけれども、神の御目からみえる霊的な事実をあげて、私たち大人のうちに潜む子どもに対する傲慢をもう一度戒められるのです。10節 「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」
 大人はなんだかんだ優しげなことを言っても、幼い子どもを見下げがちなのだとイエス様は鋭く追及なさるのでした。「かわいい。かわいい。」とかわいがっても、もし子たちをイエス様から遠ざけているならば、それは愛玩動物と同じです。イエス様を信じる幼子を尊敬する心、尊重する心を欠いているのだとおっしゃるのです。
 イエス様を信じる子たちひとりひとりには特別に天使がついているのです。そして、御使いはそれぞれの子どもの担当があって、その日、どんなことがあったかを父なる神に報告をするらしいのです。もしあなたがイエス様を信じる子を見下げて、その子をイエス様から遠ざけるようなことを言ったりしたりするならば、天使がそのことを父なる神に報告します。心して子たちをイエス様のもとに連れてきましょう。子たちを同じ主の弟子の仲間として、同じ礼拝者として歓迎しましょう。
5節 「また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」