苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

強いられた恵み   ルカ23章26節

                    2009年5月17日 小海主日礼拝
  
「彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。」ルカ23:26

1.強いられた十字架

 ユダヤの法廷、ローマ総督の法廷で判決を受けて、主イエスはいよいよエルサレム城外ゴルゴタへと進んで行かれることになりました。ローマ兵は、鞭打たれて血まみれの主の背中に、処刑具である重い荒木の十字架を背負わせます。主は、ローマ兵にこづかれながら、狭い石畳のだらだらのぼる階段になった路地を一歩また一歩と進んでゆかれます。過越しの祭りとあって、エルサレムの町は多くの参拝者が東西から集って、ごった返していました。
 聖なる祭りの最中に人を処刑するなど、まったくふさわしくないことです。けれども半分は礼拝、半分は物見遊山でやってきた人々の多くにとっては、この祭りの間になされる十字架刑というのは、残酷な見世物の一つと受け止められていたのでしょう。こんなことをあえて行なっていた宗教的指導者たちが、うわべは壮大な神殿礼拝を行ないながら、なんの霊的な内実もない人々であったことがよくわかるではありませんか。大祭司カヤパたちはエルサレム神殿の優秀な経営者でしたが、聖なる神のしもべではなかったことがうかがえて残念です。
人々は法廷からゴルゴタに向かう道沿いにびっしりと並び立って、重い十字架を背負わされてゴルゴタへと向かう囚人たちを見物していました。ある人は囚人に向かって「ざまあみろ」とわめき散らし、ある者は死刑囚につばをはきかけ、ある者は泣き崩れ、ある者たちは嘲り笑って道は騒然としています。
 主イエスはこの十字架を運ぶ前に、ピラトの命令でローマの兵隊によって激しく鞭を打たれたために、すでに相当憔悴なさっていました。ローマの鞭というのはただの皮の鞭ではなくて、皮に骨とか鉄片やガラスを埋め込られていたので、皮膚どころか肉も割けて肋骨まで見えるような血まみれの背中に重い十字架を背負っているのです。それで主はこのゴルゴタへの道の途中で、何度も何度もつまずき倒れてしまいます。すると、容赦なくローマ兵はイエスの体にむちをくれます。主は歯を食いしばってまた立ち上がって、十字架を背負って歩き出されます。そんなことを何度か繰り返すうち、とうとう主イエスはいくら兵士が打っても蹴飛ばしても起き上がれなくなりました。
 「面倒なことになった。」と舌打ちして、ローマ兵は周囲の群衆を見回しました。群衆はさっと身を引いてローマ兵から目をそらします。ローマ帝国支配下にあった国々では、ローマ兵に強制されて荷を負わされた場合、1ミリオン(約1.5km)は荷を負ってその兵士と共に行かなければならなかったからです。すると、そこにいかにも田舎からのおのぼりさんといった風体の男がおりました。男は、気の毒そうに倒れてしまったイエスを見ていたのです。福音書によれば、その名はクレネ人シモンと言いました。

 クレネというのは、今日でいう北アフリカの地中海に面した国リビアにあたります。エジプトの西隣です。シモンは過越祭の巡礼として、このエルサレムに来ていたのです。当時、西は地中海世界から、東は北西インド地域までは一つの世界になっており、それぞれの町にはユダヤ人たちが移り住んで会堂礼拝をしていました。会堂建立当初、そこに集ったのは移民のユダヤ人だけですが、やがてその地域の異邦人改宗者も礼拝に集うようになりました。彼らは聖書のみことばに触れて、自分が先祖伝来信じてきた偶像の神々がいかにむなしいかを知り、まことの造り主である神を礼拝するようになった人々です。こういう人々は敬虔な人々と呼ばれました。彼らは都エルサレムからはるかかなたに住んでいましたが、みなエルサレム神殿に詣でることを夢としていたのです。
けれども、鉄道も車もない時代に、巡礼というのは、そんなにかんたんなことではありません。格別貧しい庶民にとってはなおさらのことです。それでも彼らは一生に一度は神の都エルサレムに詣でることに憧れ続けていたのです。このシモンも一生懸命貯金をして、一張羅の晴れ着を用意して、この祭りに出かけてきたに違いありません。この祭りの時期はエルサレム城壁内にはとうてい参拝客を収容するだけの宿がありませんし、宿泊料もはりましたから多くの人々が城外にテントを張って祭りの間中、そこですごしていたのです。シモンも今朝起き上がると、あの一張羅に着替えて、テントから出て城内にはいり、神殿に参るために道を歩いていたら、この騒ぎに出くわしたというわけです。沿道に並ぶ人に聞けば、
 「これからイエスという死刑囚が、自分が磔にされる十字架を背負ってこの道を通っていくのさ。見ものだぜ。」
 というのです。イエスという男は、なんでも多くの人々の病気を治したり、奇跡を行なったり、愛の教えを説いたりしたものだから、人々は彼はメシヤだと言ってたいそう人気があった。ところが、そのことが祭司や律法学者たちには気に食わなくて、ねたみを受けて逮捕され、裁判にかけられて、今十字架にかけられようとしているというのです。「まぬけな男さ」という男もあれば、「気の毒なことですよ」という女もいます。そんなことを話しているうちに、目の前に十字架を背負ったイエスが近づいてきたのです。
見ると、十字架を負ったイエスは右に左によたよたとしています。その頭には荊の冠がかぶせられています。その衣は赤黒く汚れています。血です。そしてシモンの目の前に来ると、イエスはつまずいてばたんとうつぶせに倒れ、重い十字架ががつんとその上に落ちました。「ばか者。立て!」と、ローマ兵は容赦なくイエスをこずいたり、蹴飛ばしたりして立たせようとしますが、うつぶせに倒れてしまったイエスは十字架の下でもがいても、もはや立ち上がることができません。
 『ああ、気の毒になあ。イエスさんか・・・たくさんの人の病気を治したって言うし、とっても優しそうで、悪い人には見えないけどなあ。』
 とシモンはイエスを見ていました。すると、突然、ローマ兵が怒鳴りました。
「おい。貴様が、こいつの十字架を背負ってやるんだ。」
シモンはそのことばが自分に向かって言われていることに気がついて、ぶるぶると首を横に振りました。
「とんでもねえ。」
 けれども、ローマ兵たちはシモンをつかまえると、無理やりにイエスの血にまみれた十字架をシモンの背中に押し付けました。ずっしりと重い。シモンがいやだと叫ぶと、ビシッとむちで地面を打ってシモンを脅します。せっかく長年準備して、神様に礼拝するために用意してきた一張羅の晴れ着はイエスの血で汚れてしまいました。シモンは泣きたいような気持ちでした。でも、背負っていかねばローマ兵に、あの恐ろしい鞭でほんとうにぶったたかれてしまいますから、しぶしぶ十字架を背負って歩き始めました。周囲の人々がげらげら笑います。
 「ははは。まぬけなおのぼりさんだよ。十字架を背負わされてやんの。」
そんな声に「うるさい。」と怒鳴り返そうとします。それにしても重い。こんなに重いものを背負っていたのか。と、シモンが前を見ると、イエスはなんとか立ち上がって一歩また一歩と歩き始めました。
最初、シモンは腹を立てていました。けれども、前を行く、イエスの血にまみれた衣の背中を見ているうちに、シモンの心のうちに言いようのない感動が起こったのです。このあと、イエスが十字架に釘付けにされるありさま。イエスの口から出る一つ一つのおことばを聞くうち、シモンは確信しました。
「このお方は、神の御子でいらっしゃる。」

2.後日談――ついてきた恩寵

 クレネ人シモンのことは、マタイ、マルコ、ルカという三つの福音書に記録されています。その名が聖書に記録されているということは、このシモンという人が後に、イエス・キリストを信じる人となって、初代キリスト教会の中でこの体験を証言したということを意味しているわけです。
 ある日、クレネ人シモンは、初代の教会の集いのなかで、証言しました。
「おれがふるさとのクレネから出て過越しの祭りにやってきた、ちょうどその礼拝の日の朝、通りかかった道でイエスさまが十字架を背負ってゴルゴタへと行かれるところに出会ったんだよ。ところが、おれの前に来ると、ばたっと十字架を背負ったままイエス様は倒れてしまわれたんだ・・・。」というふうに。
 彼がイエス様の十字架をむりやりに背負わされて、その後、どのような人生をたどったかについて、聖書は彼個人についてはくわしくは語りません。けれども、ヒントのひとつがマルコ福音書には記されています。
 「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。」マルコ15:21
 クレネ人シモンは、アレクサンデルとルポスの父であると紹介されているということは、シモンの息子アレクサンデルとルポスと言う人は、初代キリスト教会において名前の知られた敬虔な信徒となっていたということです。「ああ、イエス様の十字架を背負ったシモンさんというのは、あのアレクサンデルさんとあのルポスさんのお父さんだったんですか。」と、みんながうなずくような場面が目に浮かびます。

 また、もう一つのヒント。ルポスという名は、使徒パウロが記したローマ書の末尾のあいさつのなかにあります。
「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」(ローマ16:13)
 ルポスは主にあって選ばれた人と呼ばれています。なぜでしょう。思うにパウロは、ルポスの父シモンのことを思い浮かべているのでしょう。神の計画された救いの歴史の中でたったひとり選ばれた「主イエスの十字架を担うという」光栄な任務をになったあのクレネ人シモン。「ルポス君。君はあの男を父親として持つ、選ばれた人だね。」と。
そして、使徒パウロはルポスの母親を「ルポスと私の母」とまで呼んでいるのです。事情を察するのはたやすいことです。パウロ地中海世界をたびたび伝道旅行で巡り歩きました。そうしたとき、パウロは他の初代教会の伝道者たちと同様、それぞれの町でクリスチャンの家庭に泊めてもらい、そこを拠点として伝道をしました。イエス様が弟子たちを町町に派遣なさるときには、その町の家々をあるいて、神の平和とあいさつをして、受け入れてくれる家があったら、あちこちの家を歩き渡るようなことをしないで、その家を拠点として伝道しなさいと教えてくださいました。そのように、ルポスの家つまりクレネ人シモンの家は、使徒パウロをたびたびもてなすクリスチャン・ホームとなっていたのです。
 こういう後日談を思いますと、クレネ人シモンが、無理やりに背負わされた十字架には意味があったのだなあ。後にそれが祝福へと変えられていく実例をみせられる思いがします。主イエスのために、強いられた十字架は、強いられた恩寵だったのです。

<適用> 
 主のために十字架を負うというのは、強いられたこと、逃げ出したいようなことです。「なんで自分だけが」とシモンは思いました。「こんは恥ずかしいことを」とも思いました。また主の十字架を負うことにはシモンの晴れ着のように、具体的な犠牲をもともなうことです。しかし、主の十字架を担うならば、後の日に、「あの十字架は、強いられた恵みだったのだなあ」と振り返ることになります。そして、かの日には、主ご自身が「わたしのためによく背負ってくれたね」と言ってくださるのです。
 主の十字架を担ったシモンのことは、私たちが何か自分にできそうにもない主のためのご奉仕を依頼されたとき、思い出したいものです。それは、教会におけるいわゆる奉仕にかぎらず、あなたの人生において主があなたを選んで担っておくれと委ねられた十字架とも解されます。
 先日、東御の教会にご奉仕にうかがって、小林龍司君という青年と、お母さんとおばあちゃんに会ってきました。龍司君たちは私が練馬区でお仕えした教会のメンバーでした。彼は重い自閉症と言う病気を抱えて生まれてきました。そのことは、ご家族にとって、とくに、日々龍司君の一番身近で接するお母さんにとってどんなに衝撃であり、今日にいたるまでどれほどの重荷であったことでしょう。
やがて、お母さんとおばあちゃんは近所で開かれた家庭集会に集われるようになり、そして教会にこられて洗礼を受けてクリスチャンになられたのです。私は神学校1年生のとき、練馬のその教会の奉仕神学生となって、当時小学1年生だった龍司君に出会いました。彼は教会学校ではまったくマイペースでした。神学校卒業後、私はその教会に赴任することになって、龍司君といっしょに教会生活をするようになりました。
 龍司君が3年生になったときだったでしょうか。ひとりの教会学校の先生が、その日の教会学校のお話としてイエス様の十字架の話をするために絵本を開いて話し始めました。すると、いつもはあちこちうろうろしている龍司君がつかつかと歩いてきて、イエス様の十字架の絵をじっとみつめて、「イエス様。いたい。いたい。ごめんなさい。イエス様。いたい。いたい。ごめんなさい。」と何度も何度も繰り返して言ったのです。私にとって、それは奇跡を見るような思いでした。このとき、私は伝道者として、聖書のメッセージの核心をはっきりと教えられたのです。聖書はこんなに分厚いけれど、どうしても伝えなければならないのは、主イエス・キリストがこの私の罪のために痛み苦しんで死んでくださったという、十字架のことばなのだと。
 その後、龍司君の姉と弟、そしておじいちゃん、つい先年はお父さんもイエス様を受け入れて天に召されて行かれました。イエス様が龍司君を選び、彼のおかあさんを選び、このご家族を選ばれたのです。主イエスがあの日クレネ人シモンをお選びになったように。そしてクレネ人シモンとその家族を祝福し、彼らをとおして神の民を祝福されたように、龍司君の家庭にも主は祝福をたまわりました。
 十字架を差し出されたとき、私たちは「とんでもない。なんで私だけが。」と言わないではいられないでしょう。けれど、主があなたをお選びになったなら、担うことにしましょう。後の日、この世にあっては祝福をたまわり、かの日には、「よく担ってくれた。わが友よ。」と主はあなたの肩を抱いてくださいます。

(注)小林龍司君の名前は、許可をいただいて実名を載せました。