苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

あなたは神の子ですか?   ルカ22:63−23:1

                         2009年5月3日 小海主日礼拝
「さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして。「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか」と聞いたりした。また、そのほかさまざまな悪口をイエスに浴びせた。
  夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出しこう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」
  彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから」と言った。
そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。」


1.ルカ伝とマルコ伝・マタイ伝の違い
 今日の聖書箇所は、マタイ、マルコと比較してみると、ルカ伝の記事にはきわだって特徴があります。だいぶん理解に苦しみました。「兄弟は苦しみを分かち合うために生まれる」のですから、みなさんにも、けさは少し困ってもらいたいので、ご一緒に、ルカと他の共観福音書におけるユダヤ当局による裁判の記事に比べてみましょう。マルコとマタイはほとんど同じですから、マルコの14章53−65節と15章1節を見てください。長くなりますが、読みます。

「彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。 ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まで入って行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。
さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。 イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのである。すると、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、次のように言った。『私たちは、この人が「わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる」と言うのを聞きました。』 しかし、この点でも証言は一致しなかった。そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った。『何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。』
しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。『あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。』そこでイエスは言われた。『わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。』
すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ。「言い当ててみろ」などと言ったりし始めた。また、役人たちは、イエスを受け取って、平手で打った。
・・・中略・・・
 夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。」マルコ14:53−15:1

 さて、ルカとマルコはどこが違うでしょうか。
 第一点は、出来事の順番が一見すると異なっていることです。マルコは夜中に裁判があって、裁判の後、イエス様が顔を覆われてひどい乱暴を受け、そのあと夜が明けてピラトのもとに送られているのに対して、ルカ伝ではイエス様が監視人たちに乱暴されてから、夜が明けて裁判があって、ピラトのもとに送られているという順番のちがいです。つまり、
マルコ  ①夜中の裁判 ②乱暴される ③ピラトのもとへ
ルカ   ①乱暴される ②夜が明けて裁判 ③ピラトのもとへ
 という順序の違いです。
 第二点は、裁判の様子の違いです。マタイやマルコでは、その裁判の審理の過程がけっこう長々と記されていて、イエス様に対する偽証人が「イエスは神殿を壊して三日で建てなおす」と言ったとか、言わないとか、ああ言ったとか、言わなかったとかいうことがずらずらと出てきますが、ルカ伝にはその種のことが全然記録されていません。ただ、裁判の結論だけがズバリと出てくるのです。
また、裁判官についても違いがあります。マルコ、マタイの記事によれば、大祭司カヤパが代表してイエスに審問にあたっているのですが、ルカの記事では、最終結論の部分80節をごらんください。「彼らはみなで言った。『ではあなたは神の子ですか。』すると、イエスは彼らに『あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。』と言われた」とあります。ルカ伝では、大祭司カヤパ一人でなく、議会のみんなが声を合わせてイエスに聞いたというのです。
 いったい、この違いはなんなのでしょうか?マルコの記事とルカの記事は一見すると、時間的な矛盾があるようですし、また、尋問の様態もちがっているようです。結局、次のようなことです。マタイとマルコが記録したのは夜明け前に行なわれた長い長い裁判の審理の過程と一応の結論でしたが、他方ルカが記録したのは、夜が明けてから、ピラトの裁判に送る直前に、裁判の結論をあらためて公に確認したことなのです。ルカ22章66節に「夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集った。彼らはイエスを議会に連れ出し」たとありますが、これは夜明けまでになされた長い審理の過程とは別に、夜が明けてからサンヒドリン議員たちが集いなおして、全員で短く結論を確認する作業をしたことを意味しているのです。そのことをマルコは15章1節で「夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらした」と言っているのです。
 なんで彼らは夜が明けてから、もう一度、ピラトのもとに送る前に全議会と協議をこらし、短く裁判をし直したのでしょうか?それは、先週もお話したように、夜間の裁判は無効であるとユダヤの裁判法で定められていたからです。もし夜中の裁判だけですませてしまって、ローマ総督ピラトのもとに送ったならば、もともと宗教問題など裁きたくもないピラトから「君たちが行なったイエスの裁判は法的に無効ではないか。夜中に行なった裁判なのだから。」と言われて門前払いをくらってしまうかもしれませんでした。ですから、彼らはユダヤの裁判法にかなうように、彼らの違法な裁判のうわべを整えたのでした。「私たちは夜が明けてから日の下で裁判をして、イエスを有罪、死刑に定めたのです」というわけです。いかにも律法の専門家たちのしそうな偽善的振る舞いです。
整理すると、彼らはイエスを逮捕すると、
① 夜中に長い時間をかけてカヤパの官邸で裁判を行なってイエスを仮の有罪とした。(マルコ14:53−64)
② 監視人たちはイエスに乱暴をした。(マルコ14:65、ルカ22:63-65)
③ 夜が明けて全議会は協議し(マルコ15:1)、短時間でイエスを有罪とする裁判をした。(ルカ22:66-71)
④ ピラトに引き渡した。(マルコ15:1、ルカ23:1)


2.イエスの自己証言

 しかし、この夜が明けて慌てて行なった結論のみルカ福音書の裁判記録によって、私たちはかえって、ユダヤの最高議会におけるイエスの裁判において、いったい何が問題とされたのかということを、他の福音書よりもはっきりと見ることができます。長い審理の過程は省略されて、結論部分だけが端的に記録されているからです。ここで二点イエス様に問われています。
「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」67節
「彼らはみなで言った『ではあなたは神の子ですか.』」70節
 
(1) キリスト 神の御子
 「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」(67節)という問いがまずなされました。当時、イスラエルにはキリスト待望運動がしきりに起こりました。ローマ帝国の圧制を跳ねのけ、ダビデ・ソロモン時代の栄光をイスラエルに回復する王としてのメシヤすなわちキリストが待望されていたのです。メシヤを称する革命家のような人物はイエスのほかにも現れました。
 この質問に対して、イエス様は「しかし、今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」(69節)とお答えになりました。「人の子」とはイエス様がいつもご自分をさしておっしゃる表現ですから、自分がまもなく天に上って、父なる神の右に着座する予定であるとおっしゃったのです。右の座というのは、全権を委ねられた者がすわるべきところを意味しています。後にイエス様は、「天においても地においてもわたしにはいっさいの権威が与えられています。」とおっしゃいましたが、そのことです。背景には、ダニエル書7章13,14節の預言があります。
「 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。」ダニエル7:13,14
 イエス様の自己証言は、ご自分がメシヤであることを肯定し、さらに、「私はあなたがたが誤解しているような、地上の革命家や王のようなちっぽけなメシヤすなわちキリストではない。私は天地万物の主権者としてのキリストなのだ。」と宣言するものだったのです。

 イエスが言っていることは、完全に人間としての枠を逸脱していました。メシヤといっても、ダビデ王の再来といった地上的な王だというならば、大言壮語であったとしても、それはいちがいに神をけがす罪にあたるとはいえない。しかし、イエスは自分が神の右に着座するなどととんでもないことを口にした。そういうメシヤであるというならば、それはもはや自分は人間ではなく、神の御子だというに等しいではないかとユダヤ最高議会サンヒドリンの議員たちには思われたのです。
 日本のような八百万の神々という宗教性の国では、「私は神です」という人がいたとしても、「ああ変人だ」で済ますことができます。けれども、ユダヤにおいて私は神の御子であるというのは、変人ではすませられません。文字どおり死刑に処せられるでしょう。そして彼らは今度は声を合わせてイエスを尋問するのです。夜中に長い時間かけて審議して最後の大祭司カヤパの質問にたいして、「その通りだ」と答えたイエスだが、今度もそう答えるだろうかと固唾を呑んで質問しました。
「あなたは神の子ですか?」
 すると、あろうことか、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と堂々とお答えになったのです。
 これは通常ありえない返答でした。自分のことを神だと宣言することは、ユダヤでは神への冒瀆であり、死刑にあたる罪です。イエスは自分を神と等しくしているということが最高議会の人々の耳に届いていたのですが、これほど率直にイエスが答えるとは思わなかったのです。こんなふうに返答したら、それこそ現行犯逮捕で有罪が確定するのですから。しかし、イエス様は、この証言をするためにこそ、この法廷に立たれたのです。
 こうして議会は改めて宣言します。「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから。」
 こうしてイエスに対して有罪判決が出されました。
 イエス様は、ご自分がメシヤすなわちキリストであること。そしてご自分が神の御子であることを公の場で宣言するために、あえてこの世の法廷にかけられることを選ばれたのでした。それは天の父の救済計画が成就するためでした。

(2)救い主はなぜ神の御子でなければならないのか
 メシヤとは救い主を意味します。救い主が人間ではなくて、神の御子でなければならなかったその意味について、きょう私たちはもう少しみことばから確認したいのです。救いと一言でいいますが、それは病からの救いとか、貧困からの救いとかいろいろあるでしょう。ですが、聖書は私たちが神さまの前でぜったいに必要としている救いとは、罪からの救いであると教えています。確かに病気や貧困から私たちは救われたいと思います。けれども、病気であるからといって、人は地獄におちるわけではありませんし、貧困であるからといって人は地獄に陥るわけではありません。しかし、罪の問題が処理されなければ、人は永遠の滅びである地獄ゲヘナに陥らねばならないのです。
 では、だれが私たちを罪から救うことができるでしょうか。神様の御前にあって、私たちの身代わりとなって償いを成し遂げることができるお方とは、まず人間でなければなりません。人間の罪の身代わりであるからです。
ただし、その人間は罪のない人間でなければなりません。罪ある人は、他の罪人の身代わりとなることができないからです。
 しかし、同時に、その救い主は神でなければなりません。なぜなら、神であってこそ、神の私たちの罪に対するさばきの重荷を、負いとおすことができるからです。また、神であられるからこそ、主イエスは私たちのために永遠のいのちをお与えに成ることができるからです(参照 ハイデルベルク16,17)。
このように、私たちを聖なる神の御前で罪からの救い主といえば、まことの罪なき人であり、まことの神であられるお方といえば、イエス・キリスト以外にはありえないのです。

結び

 かつて私も、神などいないと思い込んでいました。そして、神がいるならば見せて欲しいものだなどと思い上がっていたのです。神を畏れることを知らない愚かな罪びとでした。しかし、イエス様は、このような恩知らずの者のために、神の御子、救い主としてこの世に来られ、十字架に向かって進んでいってくださったのです。
 主に感謝し、主の御名をほめたたえましょう。そして、主の御愛に少しでも感謝の応答をしていきたいのです。