有神論的進化論とは何かについて、フランシス・コリンズは次のように整理している。
1 宇宙は、約40億年前にまったくの無から現れた。
2 宇宙の物理定数は、生命が生存できるように寸分の狂いもなく正確に調整されているようだ。
3 地球上での生命の起源の正確なメカニズムはまだ解明されていないものの、生命が現れてからは、進化と自然選択の過程を通して、長期間を経て生物的多様性と複雑性が発達していった。
4 進化の過程が始まってからは、特別な超自然的な介入は必要ない。
5 人間もこの過程の一部であり、類人猿と共通の祖先を持つ。
6 しかし人間には、進化論では説明できない唯一無二の部分もあり、その霊的な性質は他の生物に例をもない。これは道徳律(善悪を知る知識)や神の探求などが含まれ、歴史を通してすべての人間の文化に見られる特質である。
そしてコリンズは
「以上六つの前提を受け入れるならば、知的にも満足でき、論理的にも首尾一貫したまったく自然な統合ができあがる。(中略)この考え方は、科学が自然界について教えるあらゆる事柄と一切矛盾しない。また、世界の主要な一神教宗教とも完全に調和する。」(以上、『DNAに刻まれた神の言語』237,238頁)。
と述べる。
だが、コリンズは自分の中で矛盾が生じていることは自覚していないようである。コリンズは「4 進化の過程が始まってからは、特別な超自然的な介入は必要ない。」というが、彼が回心して本物のキリスト教信仰を持つ者となったというからには、キリストの受肉、十字架による贖罪、復活は信じているのであろう。だとしたら、彼は特別な超自然的介入があったと信じているわけである。コリンズは福音書に記されたキリストの奇跡だけは、例外として、特別な超自然的介入はあったと信じているのかもしれない。
もし彼がリベラル神学の影響下にあるとすれば、「キリストの受肉、十字架による贖罪、復活」は現象界とは関係のない宗教的フィクションとして信じているにすぎない。
まあとにかく、コリンズはなんとかして「科学」とキリスト教信仰との折り合いをつけたいわけである。だが、もちろん彼の言う「科学」とは本来の自然科学=実験科学ではなく、「自然史推測学」のことなのであるが。また「以上六つの前提を受け入れるならば、知的にも満足でき、論理的にも首尾一貫したまったく自然な統合ができあがる。」というのだが、聖書の記述とは「3」「4」「5」で矛盾が生じるのである。そして、「4進化の過程が始まってからは、特別な超自然的な介入は必要ない。」は彼が有神論者ではなく、理神論者であることを意味している。