主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに【主】はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」 創世記二十一:一―七
一年前、ソドム滅亡の直前、神はアブラハムに現れ来年の今頃約束の子を与えるとおっしゃった。アブラハムはつい苦々しい笑いをもらしてしまう。子種も尽きた老いぼれとその妻の間に子が生まれるわけなどあるまい、と思ったからである。しかし、神はたしかに彼が妻サラから子を得ることになるとおっしゃった。
ついで別の機会に、神は今度は妻サラに聞こえるように、「来年の今頃、あなたの妻サラは子を産む」とおっしゃった。この声をテントの陰で聞いていたサラもまた心の中で皮肉な笑みを浮かべてしまう。「もう枯れ木になってしまったこの婆さんと爺さんに、なにをおっしゃることやら。」と。人間的に言えば無理もない。このときサラは八十九歳、夫アブラハムは九十九歳であった。だが、神はサラの心のつぶやきを聞きとがめておっしゃった。「サラはなぜ笑うのか。」サラは肌が粟立つのを感じた。そして「いいえ。笑いません。」と応じると、神は「いや。確かにあなたは笑った。」とおっしゃって去って行かれた。サラのからだの震えはしばらく止まらなかった。
翌早朝まだ暗いとき、アブラハムたちはソドム滅亡という衝撃的な出来事に直面し、安全を願って南のネゲブのゲラルという都市国家に逃れた。あまりにも恐ろしいソドムの谷の惨状を目撃したアブラハムの心はなえてしまった。そして、ネゲブの地で、ちょうど二十五年前にエジプトにのがれたときと同じように、妻を妹と偽って保身を図るという情けないことをしてしまう。だがアブラハムの不真実にもかかわらず、神は御真実だった。
この地での経験によって、アブラハムと妻は、子を産ませるのも子を産ませないのも神であること、そして、神はアブラハムをお選びになっているという事実を確信させられた。この経験をとおして、夫婦の信仰はより堅固なものとして回復され、二人はすでにあきらめていた子が得られると信じたのだった。神は枯れ木に花を咲かせることがおできになる。そして懐妊。
やがて十月十日がたち、息子が誕生する。四半世紀の待望の後にようやく生まれた一粒種はイサクと名づけられた。イサクとは「彼は笑う」という意味である。「彼」とは誰だろう。神のことばを信じることができずに皮肉な笑いをもらしたアブラハムかサラだろうか。赤ん坊の笑顔がかわいらしかったのだろうか。いや、そうではない。自分と妻が神の約束を信じきれずに不信の笑いをしてしまったにもかかわらず、神はこの老いぼれ夫婦に対して喜ばしく笑いかけてくださったという意味である。サラは言った、「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
アブラハムの一族の男も女も子どもも、寄ると触るとアブラハム夫妻のことで笑った。
「百歳の爺さんと、九十歳のばあさんに息子が生まれたってよ。」
「ほんと、こんな不思議なことってあるんだねえ。神様は生きておいでだと、今日の今日こそ、あたしゃあ胸に落ちたよ。」
わが子に乳房を含ませる白髪の母に肩にアブラハムは手を置いた。二人は晴れやかな思いで紺碧の天を見上げた。彼らの心の耳には、天から響く神の笑い声が聞こえるようだった。
「わたしは生ける神だ。いのちを与え、いのちを奪う全能の神だ。わたしは確かに、あなたがたに約束したことを果たした。」