苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン6月23日  豊かな穀とそれに勝る喜びと

(詩4:7)
文語訳:
なんぢのわが心にあたへたまひし歓喜はかれらの穀物と酒との豊かなる時にまさりき
口語訳:
あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、
穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに
まさるものでした。
新改訳:
あなたは私の心に喜びを下さいました。
それは穀物と新しいぶどう酒が
豊かにあるときにもまさっています。
新共同訳:
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びをわたしの心にお与えください。(詩4:8)
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 新共同訳がここでも変わっていて、二つに文を分けており、また、「お与えください」と、命令に訳している。
 ヘブル本文では、語順どおり書けば、「あなたは喜びを与えてくださった、私の心に喜びを、彼らの麦とぶどう酒が豊かになっているとき(にもまさって)」。「にも勝って」をカッコつきにしたのは、この接続詞menは両様に訳せるから。NIVでは単に「when」と訳している。だが、ここは文脈上「勝って」のほうがよいだろう。
 前前節で、世の人々が「誰がよいこと見せてくれるか(神など信じてなんになる)」と悪態をつくのに対して、前節で「御顔の光を私に照らしてください」と祈り、光を受けた者として、本節で、世の人々の物的喜びにまさる喜びが私にはあると言いたいところだろう。だから、文語、口語、新改訳が正解だと思う。
 しかし、物質的に不安定であることは人の心に不安をもたらすことは事実であって、荒野を旅するイスラエルの民もそのために何度も神の前に不平を鳴らした。物的に困窮しても、主の御顔の光があればOKというあさはかなことを詩人は言っているわけではない。御顔の光を受けるなら、物が足りているときに勝る喜びがあると言っているのである。
 天候に左右される農家の兄弟姉妹が、秋の終わり頃、今年は収入がほとんど得られなかったのではないかと推察されるようなとき、浮かぬ顔をしているをのを見るのはつらい。主の御顔を光を与えて、必要十分な収穫プラスそれに勝る喜びをたまわりますように、と欲張りな祈りをささげないではいられない。