苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

『殉教の復位』

 渡辺信夫先生の「殉教の復位」(『キリスト者時代精神、その虚と実』いのちのことば社)を久しぶりに読みました。話されたのは、2004年信州夏期宣教講座の長崎エクステンションの場。それから10年たって、急速に闇が深くなっているなか、大事な文章です。抜粋します。

「日本ではプロテスタントだけでなく、特に東京中心のカトリックにその傾向が強いのですが、殉教の問題をまともに取り上げたがらない雰囲気がある」

「日本では殉教からの逃避が文学として格上げされるという特色があるのではないかと考えています。殉教を斜に受け流して、まともに受け止めないだけでなく、棄教して何が悪いか、棄教する者の弱さをキリストは受け入れてくださるという独特の非殉教評価が論理の操作によって作り出され、こういう宗教こそ日本人向きだと言われることさえあります。」

「(イスラムの)復讐のテロはさらに残忍な虐殺を生んでいるではありませんか。決死の覚悟は悪を止めさせる力にはなっていないのです。
・・・(クリスチャンとして)仮に信仰をもって戦死したとしても、それは殉教にならなかったのです。証しすべきこと、キリストにある真理、その確かさ、これが証しされていないからであります。」

「殉教者を顕彰することには意味がありませんが、これを権力の犯罪として究明することは大切です。」・・・権力のゆがみを是正するために。

「殉教の基本的要件は「服従」であり、「証し」であり、「告白」であります。服従し告白はしたが、殉教にならなかった場合は多くあり、むしろ、それが通常で正常な事態です。」

「取り戻すべきは、告白する精神であります。」

「日本のキリシタン殉教史を見ていて気になるのは、この歴史を受け継ぐ人々によって担われなければならない『抵抗』、この史実の発掘と指摘、またその意識が弱いことです。殉教の歴史を受け継ぐとは、苦難を受けつつ非暴力的抵抗の戦いを継承し、証しする言葉を受け継ぐことではなかったでしょうか。非暴力の受動性の面が強すぎて抵抗面を覆い隠してしまいました。その面を見ようとしないから、あれだけ血を流しながら、日本の国は人間を重んじる国に変わらなかったし、日本を変えようという志は持続されず、日本のキリスト教は雄雄しいものにならなかったのです。」


 主題は、日本のキリスト教界でゆがめられてきた殉教を、(ごまかすのではなく、おとしめるのでもなく、賞賛するのでもなく)正しい位置にもどすということです。



「あなたがたは、罪と取り組んで戦うとき、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」(ヘブル12:4)