苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

レビ人、在留異国人、みなしご、やもめ

26:12第三年すなわち十分の一を納める年に、あなたがすべての産物の十分の一を納め終って、それをレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とに与え、町のうちで彼らに飽きるほど食べさせた時
申命記26:12

 エジプトでもメソポタミアでも古代の異教世界にあっては、神に仕える立場の祭司階級は特権的な富裕層であった。異教世界だけでなく、中世ヨーロッパでもそうであって、その遺制があったフランスでは大革命前夜、僧侶階級は第一身分と呼ばれる特権的富裕層であった。・・・えてして、異教の世界においてであれ、聖書の宗教の世界であれ、宗教が重んじられる世界では、祭司階級というものは、このように経済的にも特権的になってしまうものである。
 しかし、申命記を啓示された神は、それがいかに危険なことであり、祭司階級・レビ人たちを堕落させてしまうかとご存じであられた。祭司が神と民との橋渡しをするという重要な務めを担っているのは事実である。だからこそ、神は、あえてレビ人を社会的弱者である「寄留の他国人と孤児と寡婦」と並べて記された。レビ人には相続地をもつことが許されなかった。相続地とは、生産手段であるから、それをもちえないということは、レビ人は在留異国人・みなしご・やもめと同じように「よるべなき立場」社会的弱者に身を置くことを強いられたのである。
 レビ人がそういう立場に置かれたことには、いくつかの目的・効果があったと思われる。
・ひとつは、レビ人たちが高慢で富裕な特権階級にならないということ。
・ひとつは、レビ人の生活が神の民の神に対する愛がいかほどのものかというバロメーターとなるということ。
・ひとつはレビ人が、よるべなき立場の人々への思いやりを忘れずにい続けるということ。
・ひとつは、レビ人たちが自分が財産にではなく神によって生かされているということを片時も忘れず祈り深くあるためである。
 神様がこんな配慮をしていらしたにもかかわらず、イエス様の時代には、宗教的な指導者層が「みなしご、やもめの家を食いつぶしている」とイエスさまから非難されなければならないような状況になってしまったのは、なんということだろう。