苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

女は男のあばら骨から

 昨日、小諸に還暦を迎えた義兄のお祝いに行って来ました。集ったのは義兄義姉たちと私たち夫婦とそれぞれの子どもたちです。この甥や姪たちには、子どももいたりします。義兄は、「世間では第二の人生といいますが、人生は一つしかないものなので、これまでの継続として、ゆっくりと生きて行きたいと思います。終わりの時に、自分なりに備えながら。」と少しあらたまった口調で話していました。誠実な生きて来られた義兄らしいことばでした。義兄もイエス様を知ってくれたらとせつに思います。
 
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 「おとうさんは中年太りなどというものは縁がない。太る人は自制心が足りないのだと」などと子どもに誇っていました。筆者は二十歳に買ったズボンが四十歳をすぎてもずっとはけたからです。ところが、四十代後半のある夏の終わり、急にズボンが苦しくなって、その翌春、ズボンのいくつかは処分せざるをえなくなりました。ラジオで聞いたところによると、中年太りは成長ホルモンの分泌が止まって、代謝が悪くなることによるのだそうです。今では、子どもたちに「おとうさん。自制心が足りないんじゃないの。」と笑われます。
 また、同じようなころ、礼拝の祝祷のとき、右肩がギクッと来て数ヶ月手が上がらなくなったことがありました。四十肩です。
 それでも家内と私はいつまでも年齢にふさわしい貫禄が備わってこないので、自分ではいつまでも若いつもりでいたのです。「体内年齢」とかいうのが表示されるタニタのゴマスリ体重計では、五十代半ばに達しても、私が38歳、家内は37歳なのでいい気になっていました。けれど、最近からだの変化を実際に感じ始めています。頭の森はすでに林になっていますが、やがて草原になり、そのうち砂漠になるかもしれません。悟りでも開いた人は別として、凡人はいつまでも若く美しくありたいと考えます。
 けれども、夫婦が十年、二十年、三十年、四十年ともに歳をとって行きながら、たがいに赦すこと信じる愛することを学んでいくことができたなら、そこには深い満足感があるものです。おたがいにいささかしょぼくれた姿を見て、ああいっしょに苦労してきたんだなあとしみじみ感じる・・・というほどの歳でもありませんが、そういうことが少しわかるようになってきました。
 神様は最初の夫婦をお造りになるときに、その妻を夫のわきの下のあばら骨から造られたと聖書に啓示されています。最初の男は感激のあまり、人類初のラブソングを歌いました。無骨な恋歌を。
「これこそ私の骨からの骨、
 これこそ私の肉からの肉。」
こういうわけで夫と妻は、そもそもがひとりです。どうして神様は女を男の頭の骨から造らず、また足の骨から造らず、あばら骨から造ったのでしょうか?「あたりまえだよ。もし頭蓋骨を取ったらアダムの頭がブヨブヨになってしまうし、足の骨を取ったら歩けなくなるけれど、あばらなら一本とっても平気だからさ。」これは合理的な答えです。たしかにあばらの一本程度ならたいした問題にはなりません。でも、そこにはもっと深い意味があると、有名な聖書注解者は言いました。
「女は男の頭の骨からは造られなかった。女は男を支配するために造られたのではないから。女は男の足から造られなかった。男に踏みつけられるために造られたのではないから。女は、男のあばら骨から造られた。それは男の力強い腕に守られるため、また彼のハートにもっとも近くあるために。」


   義兄は長年郵便局員でした。