苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

忍耐とチャンス

                  使徒24:27-25:12
                小海キリスト教主日礼拝

「さて、二か年たった時、ポルキオ・フェストが、ペリクスと交代して任についた。ペリクスは、ユダヤ人の歓心を買おうと思って、パウロを監禁したままにしておいた。 」(使徒4:27)
 問題先送り事なかれ主義の総督ペリクスのもとで、パウロは未決囚として二年間も軟禁状態で足止めを食いました。飛車のような伝道者パウロにとっては忍耐の日々でした。人生には、このような無駄とも思える日々があります。しかし、木の葉一枚、髪の毛一本落ちることも神の許しなくしてはありえないとすれば、この無駄に思える日々も神の御手からでたことです。摂理の神は私たちを決して忘れてはおられません。だから、置かれたその立場で、疑わず不平を言わず主を待つことです。

 素晴らしいのは2年間の抑留生活のなかでもパウロは決して、その志を腐らせてしまうことがなく、かえってその志に磨きをかけていったことです。パウロはこの二年間の軟禁生活において、ますます主イエスからいただいたローマ宣教の幻を明確なものとして行きました。私たちが主のみこころを悟り行なうためには、私たちの思いから肉的な野心がそぎ落とされるために時を要することがあり、神はそのために備えの時を与えてくださるのです。モーセはエジプトから民を救い出す志を抱いたのは40歳のとき、それを実行すべく立てと神に命じられたのは80歳。備えの時が必要でした。

 こうした備えの後に、ついに神の時が訪れます。総督ペリクスの後に、フェストという即断即決の総督が立ち、ただちに法廷が開かれます。この状況の中でローマに行けという主イエスの命令を成し遂げるにはどうすればよいのか。「カエサル(ローマ皇帝)に上訴するのだ」というアイデアは御霊のささやきでした。こうして、ローマへの道が開かれてゆきます。神の御心が成るというのは、ただ受身的に待っていればよいわけではありません。神のみこころを行うための備えができたとき、神がチャンスをくださったら、それを積極的につかみとることです。「機会を十分に生かして用いなさい。」




 明日から松原湖バイブルキャンプ場で、KGK(キリスト者学生会)の春キャンプがあるんですが、今朝、雪がどっさり降りました。午前9時の今も向こうの山が見えないほどに、降り続いています。
 KGKのみなさん。長靴持参ですよ。雪合戦ができますねえ。