苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

近代教会史ノート9 正統主義の時代(2)フランス

2.フランス:「荒野の教会」プロテスタント弾圧
  J.ゴンサレスの当該箇所の要約。
(1)ユグノー戦争(1562-1598年)とナントの勅令(1598)
 ジャン・カルヴァンの思想がフランスで勢力を持ち、改革派はカトリック側から蔑みを込めてユグノー(huguenot)と呼ばれた。ユグノーはドイツ語のEidgenosse(アイドゲノッセ、盟友の意味)から生まれた蔑称。
プロテスタントには一部貴族が加わり、弾圧にもかかわらず勢力を広げていった。1560年、プロテスタントは弾圧側の中心であったギース公フランソワを襲い、王族らを奪取しようとしたが、計画は事前に漏れていたため、実行者は捕らえられ残酷な処刑が行われた(アンボワーズの陰謀)。
 1562年、カトリーヌとシャルル9世は宰相ミシェル・ド・ロピタルとともに両派の融和を図り、プロテスタントの集会や私邸内での礼拝を認める1月勅令(フランス初の信教の自由に関わる法令)を出したが、宗教上の対立を止めることができず、まもなく内乱が勃発した。
 1562年、ヴァシーでプロテスタントの虐殺事件が起こった。これは当時政界で力のあったギーズ家の兄弟二人が200人の武装した貴族たちとともに、ヴァシー村の納屋で礼拝中のユグノーを包囲して、大量虐殺したのである。これ以降ナントの勅令(1598年)までの内乱状態を一般にユグノー戦争と呼んでいる。およそ36年にわたって断続的に戦闘が行われた。
特に1572年8月24日の「聖バテルミーの虐殺」が有名である。ギーズ公爵は、パリ治安維持部隊と合流して、ユグノーを襲撃し、2000人のユグノーが虐殺された。さらに、ギーズ公爵が虐殺を国の隅々にまで拡大せよとの命令を発したので、騒乱は地方に広がり、犠牲者の数は数万人に上った。
 1598年4月13日にアンリ4 世がナントの勅令を発布した。ユグノーなどの新教徒に対してカトリック教徒とほぼ同じ権利を与え、近代ヨーロッパでは初めて個人の信仰の自由を認めた。

(2)荒野の教会
 ところが、1610年5月14日、アンリ4世が暗殺された。その頭部はごく最近発見された。1624年には枢機卿リシュリユーが宮廷の実権を握った。リシュリューは宗教的信念よりも政治を優先する男だったから、自らはカトリックでありながら三十年戦争ではブルボン王朝の最大の敵ハプスブルク家をたたくためにプロテスタントに味方した。しかし、フランス国内ではプロテスタントは中央集権化を邪魔する勢力として弾圧し、アンリ4世ユグノーの安全のために与えた城塞都市を攻撃し虐殺を行なった。城塞都市がなくなった後は、宗教的寛容政策がとられた。リシュリュー死後、枢機卿マザランがその政策を継承する。
 マザランが死んだとき、23歳で王となったルイ14世は「ガリア教会の自由」を主張しローマ教皇と対立し、かつ、フランス国内のユグノーに圧力をかけた。プロテスタントに対して軍隊を動員してカトリックへの再帰を強制した。
1685年、ルイ14世はナントの勅令を廃止し、フォンテンブローの勅令を出し、プロテスタントを非合法と定めた。その結果、フランスの多くのプロテスタントは外国に亡命した。彼らは職人や商人であったためフランス経済は打撃を受け、これは後のフランス革命の遠因となった。
 フォンテンブローの勅令の後にも、表面上カトリック再帰したが実際にはプロテスタントの信仰を持つ人々はプロテスタント的礼拝を維持し続けた。野原や森や空き地で秘密の礼拝がささげられた。発見されることはまれであったが、発見されると逮捕され、男はガレー船の強制労働へ、女は終身刑に、牧師は死刑にされ、子どもたちはカトリック教育をするために里親に出された。
 こうした弾圧に対して反乱をおこした黙示主義的なプロテスタントはカミザールと呼ばれ、国王軍は長年にわたって手を焼いたものの、17世紀末にはほぼ一掃された。
1715年、フランス改革派教会の教会会議が組織され、神のことばに矛盾することを要求されたとき以外はすべて法的権威に従うことを改革派教会の基本方針とした。1726年、スイスのローザンヌに亡命地での神学校が設立され、フランスの改革派教会の熟達した隠れ説教者たちはここで養成されることになった。こうして改革派プロテスタントはフランスに根を下ろしていく。国家からの弾圧がやむのはルイ16世1787年に寛容令が出されて後のことである。