苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「強靭な皮袋を」

2010年日本同盟基督教団松原湖研修会開会礼拝説教 10月5日

     (白駒の池 立花屋さんブログより 今ちょうどこのくらいの紅葉です)
「2:18ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。 2:19するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。 2:20しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。 2:21だれも、真新しい布ぎれを、古い着物に縫いつけはしない。もしそうすれば、新しいつぎは古い着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなる。 2:22まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。〔だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである〕」。 マルコ2:18-22 口語訳

 断食をめぐって三つの立場の人々が、ここに登場します。ひとつは、バプテスマのヨハネの弟子たち、つぎにパリサイ派、そして、主イエスの弟子たちです。この箇所を理解するときに、私たちの受けている新約の時代における救いの恵みの性格を知り、それにふさわしい信仰生活のスタイル、また教会(教団)運営の原則について知ることができようかと思います。

1. バプテスマのヨハネの弟子たちとパリサイ派の断食
 
 主イエス御在世当時、バプテスマのヨハネの弟子たちと、パリサイ派の人々はその宗教生活で規則的に断食を実践していました。パリサイ派は週に二回の断食をしていたとルカ伝にはあります。それなのに、イエスの弟子たちはどうも、彼らから見ると断食をしているようすがなかったので、ヨハネの弟子たちとパリサイ派の人々はいぶかしく思って非難したのでした。 バプテスマのヨハネパリサイ派とは、断食をしているという表に現われた行為について言えば共通していましたが、その中身、目的は異なっていました。
 旧約時代最後の預言者ヨハネでした。ですから、ヨハネの宗教性、ヨハネのメッセージには旧約の預言者たちの宗教性とメッセージが集約されています。ヨハネのメッセージは、二つ。一つは「悔い改めよ」ということでした。ヨハネが荒野で獅子のように吼えると、人々は恐れおののいて彼のところに続々と集まってきて、自分が聖なる神の御前では、死にあたいする罪人であることを認めて、罪を告白したのでした。
 パウロは旧約の預言者・教師たちの務めは「罪に定める務め」であり「死の務め」であると表現しました。(2コリント3:7,9)。ヨハネは、律法を語り、「義人はいないひとりもいない。正しい人はいない一人もいない。」ことを明らかにして、悔い改めを迫ったのでした。というわけで旧約的な霊性を一言で表現すれば、神の前におのれが死に値する罪人であることを悲しむ、悲しみの宗教ということができるでしょう。そして断食とは、まさに、神の前における己の罪と無力を徹底的に認めた者としての自発的な悲しみの表現なのでした。それは旧約聖書における聖徒たちが食事を断ったという事例をひとつひとつに通じるものです。たとえばダビデがわが子が危篤になったとき、彼は食を断ちました。むしろ食事がのどを通らなかったのです。
 ヨハネのもう一つのメッセージは、「キリストがおいでになる。自分はその方の靴の紐を解く値打ちさえもない」ということでした。言い換えれば、キリストがもたらす新約時代の恵みの偉大さは、旧約の恵にはるかに勝るものであるという意味です。その恵みとは、罪の贖いを成し遂げて赦しを明確に与え、かつ、神の民すべてに聖霊を注ぐことです。ヨハネはイエスを指差して「見よ、神の小羊!」と叫んで贖罪の完成者であることを告げ、また、エレミヤ、エゼキエル、ヨエルの預言に基づいて聖霊の注ぎを告げました。
 旧約時代、多くの牛や羊が罪を贖うたいけにえとして毎年捧げられました。ささげられましたが、それによっては誰も罪きよめられたという確信はついに得ることがでませんでした。もろもろのいけにえは、やがて、完全な罪の贖いを成し遂げてくださるメシヤを暗示する影にとどまっていたのです。そういうわけで、ヨハネ、そしてモーセ以来ヨハネまで連なっている預言者たちの霊性の基調は、聖なる神の前における罪の自覚と悲しみであり、その表現としての断食がなされたのでした。

 他方、パリサイ人たちの断食とはどのようなものだったでしょうか。表面的には、ヨハネの弟子たちと同じです。けれども、その中身は異なっていました。あるパリサイ人は神の前に胸をそびかすようにして、こう祈りました。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ18:12)
 本来断食とは、神の前の自分の無力と罪深さを嘆いてする悲しみの行為でした。ところが、パリサイ人たちは、その断食を己の敬虔さを人前で誇るための偽善的なわざになっていました。いかにも「私は断食をしていますよ、なんと私は敬虔でしょう」というようにしていたのがパリサイ人の断食でした。うわべは、旧約の預言者ヨハネの断食に似ていますが、心の中身はまるで逆さまでした。

2. イエスの弟子の立場

a.イエスは旧約預言者の正統に位置しつつ、それを超える。
 イエス様は、その公生涯の最初にヨルダン川にいるヨハネの所に行って、彼からバプテスマを受けて伝道活動をスタートしました。イエス様は、ご自分が旧約の預言者の伝統に連なるものであるという立場をあきらかにされました。
 けれども、主イエスは単に旧約の伝統の上にある一預言者ではありません。イエス様は、旧約の預言の成就そのものでした。たとえていえば旧約の預言者たちが、レストランのショウウィンドウの中の蝋細工のごちそうだとすれば、主イエスは本物のご馳走なのです。

b.花婿イエスがともにいる喜びのゆえに
「あなたの弟子たちは、なぜ断食しないのですか?」と問われたとき、主イエスはお答えになりました。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。」結婚式は喜ばしい祝いの席です。当時のユダヤでも結婚式の最中には断食してはいけませんでした。今、花婿であるキリストが来られ、預言者たちが首を長くして待ち望んだ救いがここに来たのであるから、その友である弟子たちは喜びいっぱいである。断食とは神の前における魂の慟哭の表現であるのだから、こんなに喜びに満ちているときに弟子が断食するというのは、まったくふさわしくないことでした。
 しかし、花婿キリストが弟子たちから奪い去られて十字架にかかるときには、弟子たちは悲しみのあまり食事ものどを通らず、断食をするだろうというわけです。断食というのは、本来、神の前における深い悲しみを表わすものです。イエス様は、断食という外に現われた形より、中身を優先されたことです。

c.新約時代の祝福の偉大さ
 以上から、新約における神の祝福は、旧約時代のそれに比べてはるかに偉大なものであることがわかりましょう。旧約の預言者たちの霊性が、神の御前における罪認識と悲しみであったのに対して、主イエスのもたらした救いは、神の御前に赦しの確かさと喜びであるのです。旧約に対する新約の新しさとはなんでしょうか。
 第一に、神の前での罪が贖われ、私たちは赦されたという確かさです。神の小羊イエスが、自らをいけにえとして、神におささげになったからです。旧約の聖徒たちはいかに牛や羊をささげても、罪がきよめられ赦されたという確信を得ることはできませんでした。しかし、私たちは、神の御子の十字架と復活のゆえに、罪の赦しの確信と平安をいただいています。
 第二に、御子イエスを信じる者のうちに注がれた御子の御霊のゆえに、私たちには、神を父よと慕わしい思いをもって呼ぶ喜びがあります。神は聖なる審判者として、私の罪をゆるしてくださったばかりか、父として、この私の存在を喜んでいてくださるという喜びが、私たちにはあります。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8:14−16)この神の子供とされた喜びを、私は、三十年前、神学生のとき宮村武夫先生との出会いを通して教えていただきました。
 そして、第三に、新約の恵の偉大さは、神の御霊が、あたかも後の雨のように教会に豊かに注がれたということです。旧約時代にも神の霊は、預言者や王や祭司という特別な職務にあずかった人には時折注がれました。けれども、新約の時代、あのペンテコステ以来、預言者ヨエルが預言したとおり、神の霊はすべての信徒に注がれました。「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(使徒2:17,18)この聖霊が原動力となって、新約の時代、福音は世界へと爆発的に拡大していきました。新約の恵みは、生き生きとしたダイナミックな御霊の注ぎです。

3. 新しいぶどう酒は新しい皮袋に
 
 主イエスは続いて言われました。22節「だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」
 新しいぶどう酒は生命力にあふれていますから、発酵してどんどん炭酸ガスを発します。それで、硬くなって弱くなった古い皮袋では裂けてしまいます。そこで、新しいぶどう酒(むしろぶどうジュース)は、丈夫でかつ柔軟な皮袋に入れる必要があります。丈夫であっても、硬くてはいけません。柔軟であっても弱くてはいけません。丈夫でかつ柔軟であること大事です。辞書を調べてみましたら、「強靭」ということばが見つかりました。「強く、かつ、しなやかで、ねばりがあるさま」とありました。皮袋は、強固ではいけません、強靭であるべきです。
 新しいぶどう酒とは新約の恵みです。時に、旧約時代は律法や規則が大事だったが、新約時代に律法や規則は要らないという人がいます。それは「新しいぶどう酒に器など要らない。床にぶちまけてしまえ」という乱暴な議論です。主は「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」と言われました。新しいぶどう酒、新約の恵みとは、人となられた神イエス様のゆえに罪赦された平安、神の子とされた喜び、聖霊が全信徒にくだったことによる宣教のスピリットです。この聖霊による生命力にあふれる新しいぶどう酒を入れるには、丈夫で柔軟な皮袋のような機構が必要です。それは強固ではいけません。「強く、かつ、しなやかでねばりがある」強靭な皮袋でなければなりません。

同盟教団の強靭さの素質
 私は、同盟教団には、もともと強靭なつまり、丈夫で柔軟な素質があると思っています。丈夫な面というのは、「聖書信仰に立ち、宣教協力を行う為に、合議制をとる」という丈夫な三本柱です。聖書信仰は共通の土台、宣教協力という目的、合議制という運営方法という三つの柱です。
 一方、同盟の柔軟性の理由をおもいつくこと4つ上げておきたいと思います。
 一つ目は、同盟教団には他の伝統的諸教派のようには、聖書以外に誇るべき固定した伝統がないことでしょう。あるとすれば、<主の再臨を待望しつつ、地の果てまで命がけで伝道して行くぞ>という、よく分からないフランソン・スピリット!だけでしょう。同盟教団は、固定した伝統を持っておりませんので、それに縛られません。過去の教会の歴史に謙虚に学びますが、縛られはしません。聖書に立ち返って、柔軟にこの時代に適用していけます。
 同盟教団の柔軟さの二つ目の理由は、世代間の協力というか、先輩の諸先生がたの心の若さ・謙遜さです。ある年のヤマハリゾート嬬恋での教団の集会で、若者たちの鳴り物入りの賛美集会が特別会場でされていました。私がのぞいてみたら、それは賑やかな賛美でした。静寂を愛する私はしばらくしてその場を出たのですが、なんとそこに当時の理事長が両手を挙げて、若者たちと一緒に賛美しておられたのです。心が若いですねえ。
またこんなことがありました。私が四十代前半で理事にされてしまったとき、不安を感じて、ある先輩のH牧師にお話しました。「私みたいな若造が理事として立っても、先輩の先生方は耳を傾けてくださるのでしょうか。」すると、H先生は「水草先生。同盟教団をなめてはいけません。大丈夫です。先輩の先生方は、ちゃんと自分たちで選んだ理事のことばに耳を傾けてくださいます。」事実、そのとおりでした。私も、先輩方にならって、謙遜で柔軟でありたいと願っています。
 同盟教団の柔軟さの理由の三つ目は、同盟教団の外に向かって開かれた姿勢です。この松原湖バイブルキャンプの利用者は教団外部利用者と教団内利用者が半分ずつです。そのようにして、他教団教派に仕えています。また、他団体、他教会から教団に加入していただいた先生方とも喜んで主のために働くことを喜びとしていることです。安藤仲市理事長も赤江理事長ももともと同盟出身ではありません。外様も譜代もありません。イエス様を愛し、伝道にいのちを賭けていればみな一緒に働くことができます。同盟教団には伝統も格式もないので、垣根が低いからです。
 同盟教団のこれまでの柔軟さの理由の四つ目は、教憲教規のシンプルさです。緻密に膨大な規則で固めてしまうと、想定外のケースに即応できなくなりますが、必須の事柄はもらさず最小限の機構にしておけば、状況に応じた裁量ができるので柔軟です。もちろん、その反面、ご都合主義という面が出てくる危険はあるので、注意を要します。しかし、今後も、強固でなく強靭な組織であるためにはシンプルできちんとした必須にして最小限の規則と、的確なリーダシップが必要です。

結び 最後に、今後の機構改革の具体的4点を確認しておきます。
 同盟教団の機構改革のめざす新しい機構は、強固でなく、強靭なものであることが肝要です。まず第一に宣教区制を始めました。宣教区による主体的な国内外の宣教を目指して、とりあえずスタートを切り、数年が経ちました。いくつかの宣教区で開拓伝道が始まっていることは、感謝なことです。国内開拓伝道でなく、国外宣教、信徒教育、社会的なことなどいろいろな形の協力がありましょうが、ますます、宣教協力の実を上げていく宣教区でありたいと思います。今後、教団が行ってきたことで、むしろ宣教区におゆだねした方がよいことは、宣教区にゆだねていくことになります。

第二に、いよいよ、これから教団総会は代議制にむけて動きだそうとしています。これも宣教協力のための合議制ですから、その代議制には、「合議のスピリット」が十分活かせるような工夫をしていく必要があると思います。知恵を与えていただきたいと思います。

第三に、代議制と裏表ですが、宣教大会、記念大会のますますの充実ということです。代議制にしたばあい、みなが一堂に会することが会議ではできなくなりますから、宣教大会などの集会が重要な役割を果たすことになっていきます。これまでの献身者発掘をデータ的に見ますと、同盟教団は、バイブルキャンプと宣教大会・記念大会を積極的に行ってきたことが、功を奏してきたことがあきらかです。今回の研修会では、この点については取り上げませんが、ぜひ心に留めておいてください。

第四に、よりよい教職養成についても工夫をしようとしています。若い、必ずしも若くなくても、新しい教職が確実に整えられ成長していくための工夫です。教職の養成は全教会で支えて行くということです。

いずれにしても、私たち日本同盟基督教団のうちに主イエスが注いでくださった、御霊の息吹がダイナミックに躍動する新しいぶどう酒にふさわしい、丈夫で柔軟な新しい皮袋がこの機構改革によって用意されていくようにと望み、祈ることです。