先に、ベネディクトゥス修道院のところで、修道院的循環について書いた。修道士たちは無所有で労働をしたので、結果的に修道院という組織には富が蓄積されて、その結果、修道院は堕落した。そこで新しく別の修道院を起こす人が出てくるが百年もたてば同じことが生じるという話である。
ローマ教会のばあいは、聖俗二元論なので、山上の説教の禁欲的生活をするのは修道士の役割であり、一般信徒は世俗的生活をしているほかないとした。そうして、聖なる人々の功徳にあやかることで救われるという考え方であった。(筆者は山上の説教の生活が禁欲的生活であるとは思わないけれど。)
しかし、聖書に立ち返ったプロテスタントは、ヴェーバーのいう「世俗内禁欲」でもって、いわば全信徒が修道士のごとく神の栄光のために世俗的職業においても勤勉に働き、ぜいたくはしないという倫理を持つようになった。(たしかにそういう勤勉なプロテスタント宣教師を身近に知っている)その結果、富がどうしたって蓄積することになる。富が蓄積して行けば、仕事・会社組織は拡大していく。やがて、修道院的循環と同じように、神の栄光のために一生懸命働くという目的が見失われると、富の蓄積と会社組織拡大そのものが目的化した偶像崇拝に堕する。近代西欧の歩みは、そんな経済における偶像崇拝への堕落のプロセスであり、現代のマネーゲームはそのきわみである。資本主義世界は、拝金主義に染まってやたら忙しい、堕落した巨大な修道院になってしまった。
「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」マタイ6:19−21