苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

古代教会史ノート12 コンスタンティヌス帝回心の教会への影響

3. 礼拝形式への影響

 迫害が終わった。教会は国家の手厚い保護の下に置かれることになる。これはさまざまな影響をもたらすが、その一つは礼拝の姿への影響である。たとえば、祭壇もいけにえも存在しない簡素なキリスト教の礼拝に、異教的な影響が生じてくる。礼拝堂は当時の裁判所・取引所といった集会所に用いられたバシリカ様式の列柱廊を特徴とするものが用いられるようになった。また薫香が教会でも用いられるようになる。司祭は従来の平服でなく装飾のついた司祭専用の服が工夫される。聖遺物崇拝も生じる。入祭行列もはじまり、聖歌隊も始まる。結果、礼拝のなかでの会衆の役割が減った。

4. エウセビオスの公神学

(1)概略
「公神学」とは教会と帝国を一つに結び合わせる目標へ歴史を導くために、神がコンスタンティヌスを選んだということを論証する神学。代表者はカイザリアのエウセビオス(260年−339年)。エウセビオスは、オリゲネスの孫弟子にあたる。コンスタンティヌスが単独皇帝になる数年前313年頃に、カイザリアの司教に選出された。迫害で四散したキリスト教徒を再び集めて教会の組織作りをした。そして、パレスチナ全体に対する責任も負った。
 彼の仕事の最大のものは『教会史』(山本書店秦剛平訳あり)である。古代教会におけるさまざまな事跡を我々が追うことができるのは、ほとんどこの本に拠っている。
 『教会史』の「真の目的は、キリスト教こそが人間の歴史の最終目標であるということを弁証することにあった。しかも、ローマ帝国の文脈からその歴史を解釈しているのである。」(ゴンサレス)「こうした歴史理解が正しかったということを示す要石が、コンスタンティヌスの回心であった。エウセビオスによると、キリスト教の迫害は、キリスト教こそがローマの最高の伝統を完成させる最後の仕上げであることをローマの権力者たちが理解しなかったからである。」信仰と帝国とは両立する。キリスト教信仰こそ哲学と帝国の頂点に位置する。・・とこのようにエウセビオスは考えた。
 「コンスタンティヌス大帝の死後(337年)、エウセビオスは『コンスタンティヌスの生涯Vita Constantini』(邦訳あり)を描いた。この本には、コンスタンティヌスが敬虔なキリスト信者として描かれているため、後代の歴史家ブルックハルトはエウセビオスを「古代で最も信用ならない歴史家」つまりエウセビオスは御用神学者であると評した。
 エウセビオスコンスタンティヌスを大帝を神の支配の地上における型と考え、皇帝は神の代官、神の似姿、神によって選ばれた者という皇帝理念を作り出した。これがもとになって東方教会の皇帝を教皇だと主張とするカエサロ・パピズムが生まれた。なんと1917年ロシア革命までこれが続いたことを思えば、その歴史的影響は甚大。」(『大事典』より略述)

(2)コンスタンティヌスのもたらした新しい状況は、それまでの伝統的なキリスト教神学の主題のいくつかを放棄させることになった。
 「貧しい者は幸いである」(ルカ6:20)という福音の主題の一つが語られなくなった。コンスタンティヌス帝以降、富や権力が神の祝福のしるしとみなされるようになった。壮麗な教会堂、典礼が発展し、聖職者たちは貴族階級のようになってしまった。新約聖書と初期教会にとっては、「貧しい者は幸いである」というのは、常識だった。福音とはまず貧しい人々へのよいしらせだったのであり、キリスト教が弾圧される社会状況にあっては主イエスにしたがうことはしばしば財産の放棄を意味したからである。むしろ金持ちがいかにして救われるかは神学的議論の一つだった。エウセビオス『教会史』7巻11節には「罪の宣告、財産の没収、人権剥奪、財産略奪、官位の喪失・・・」と言ったことがキリスト信仰を告白した者が経験したこととして記されている。
 またエウセビオスの歴史解釈は初期の教会の主が再臨して「神の国が来る」という中心的主題をわきにおしのけてしまった。コンスタンティヌスとその後継によって、神の計画が目標に到達し成就したと語っているかのような印象を受ける。

*「富者の福音」は、キリスト教がマジョリティになったいわゆるキリスト教国や地域では、今日にいたるまで繰り返し起こってくることである。そのような場合、「心の貧しい者は幸いである」(マタイ5:3)を用いて、貧しさを霊的なものとしてのみ取ることに逃げてごまかしてしまうことがあるのではなかろうか。

5. 修道院のはじまり

 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,14)
 コンスタンティヌスのもたらした世界は、富者の福音・権力者の福音を約束するような事態をもたらした。かつて主イエスの弟子として、枕する所もない生活をした教師たちは、貴族階級、高級国家公務員となってしまった。主イエスが示した狭き門は広くなったように見える。しかし、いのちに至る門は本当に広くなったのだろうか。単に滅びに至る門をいのちに至る門を見間違えているのではないか。
 こうしたキリスト教が一見平穏無事なメジャーな世界の安全こそサタンの罠であると、認識する人々がいた。彼らは修道生活を始めた。今日「霊性」への関心から「砂漠の修道士」たちの営みが見直されている。
 たとえば、ヘンリー・ナウエン『砂漠の知恵』教文館
「砂漠の師父母とはどんな人たちだったのか。彼らは砂漠で悪鬼と戦い、さらに神の愛に遭遇するため、権力欲に駆られた社会での衝動的欲望や策動策略から身を引いた男女である。彼らが鋭く感じ取っていたこと、それはキリスト教迫害の時代が去り、社会の『正規な』構成員として受け入れられたとき、父、母、兄弟、姉妹を去り、十字架を取ってキリストに従うという根源的な招きが薄められ、受け入れやすく心地よい宗教性に取って代わられ、人の生き方を転換する力が失われてしまったことであった。エジプトの荒野に生きたアバ、アマたちは、妥協と迎合のこの世やなまぬるい霊性を背後にし、十字架にかけられ復活された主の証し人の新しいありかたとして独居、沈黙、祈りを選び取った。つまり彼らは新しい殉教者として血を流すことによってではなく、ひたむきにへりくだり、手仕事、断食、祈りに専念することによって証を立てたのである。」(p14)

(1)独身制
 聖書的理由としては、①終末が近いならば結婚していろいろと計画をして暮らすことは意味がないと考えられたこと(1コリント7:28−34)。②神の国においては人は御使いのように「めとることも嫁ぐこともない」と主イエスが言われたのだから、神の国の証人として独身でいるのがよいと考えた。
 だが独身制には異教的影響も認められる。古代ギリシャプラトン哲学は、肉体は霊魂の牢獄であると考えた。そこから肉体の欲求を押さえつけて魂を解放しようという修行に意味があるとされた。

(2)最初の修道士
 彼らは孤独を求めてエジプトの砂漠で修道生活をした。孤独ということばmonachos(ギリシャ)が、修道士monkの語源。
 アントニオスの話
 一切を捨てて、孤独を求めて修道生活をめざすが、多くの人々に付きまとわれる。
「聖大アントニオス(250-356年)は修道士の父とされる。250年にエジプトで生まれた彼は270年に苦行生活を開始した。彼が隠棲したのは上エジプトのテーべに近い荒野であった。彼は数十年問にわたり、そこで、異形の獣に化けた悪魔から誘惑を受けることになる。「責めさいなむのに千変万化することなど、悪魔にとってはいとも容易なことである。それ故、夜になると、化物どもはかかる大騒ぎを行なって、村人全員を震え上がらせるのだった。草の庵の壁は壊れているも同然だったため、化物どもは獣や爬虫類に化けて侵入してきた。そこら中に獅子や、熊や、豹や、牡半や、大蛇や、アスピクスや、蠍や、狼などの亡霊が満ち溢れていた。 ……皆がものすごい音を立てて、檸猛な気性を剥き出しにしていた。 アントニオスは、彼らから鞭打たれ、棒で小突き回され、その苦痛をだんだんと堪え難く感じるようになってきた。勇敢で、しかも魂が覚醒状態にあった彼は、肉体の苦痛に身をうち震わせながら体を横たえていたが、しかし、魂にいささかの怠りもなく、彼らのことを無視し続けていたのだった」(聖アタナシオスによる聖アントニオスの生涯、第8章 朱門岩夫訳)」

(3)パコミウスと共同体としての修道院
 修道院の原則は①すべての所有物の放棄 ②上長への完全な服従 ③すべての者はいっさいの労働を自分でする。いかなる仕事も自分にふさわしくないといってはならない。 ④互いに仕えることが基本原則。したがって、上長に対する絶対服従が求められるが、上長もまた自分の下位の者に仕えるということだった。
 4世紀に修道院運動が一番盛んだったのはエジプトだった。パコミウスもその後継者たちも、一度も教会の公の職務についたことがない。彼らは按手を受けた司祭ではない。彼らは聖餐式にあずかるために、教会に出かけ、あるいは司祭が修道院を訪問してミサを立てた。

(4)修道院の理念の普及
 修道士の手本が教会生活に役立つと考えた司教や学者たちが、修道院運動を紹介していく。たとえばアタナシオス、大バシレイオス、アウスグティヌス、トゥールのマルティヌス。最初は司教の世俗化と虚飾にたいする抗議を動機とした修道院運動は、次第に司教制度のなかに組み込まれていった。真の司教は、修道士の生活に近づくように努力すべしという考えがもたれて。
 初期修道院運動では、修道士が自分個人の救いを求めて荒れ野の生活にはいったが、後年になると、特に西方教会では、共同体としての修道会は教会の慈善と宣教に用いられていくことになる。中世においては、教会改革の力として新しい修道会が幾度も出現する。