苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主イエスを信じなさい

使徒16:16−40
2010年8月15日 小海主日礼拝
1.背景
 紫布の女商人ルデヤの屋敷を拠点として、パウロ、シラス、テモテ、ルカたち4人はピリピで伝道活動をしました。この日は、パウロとシラスは二人で例の祈り場に旧約聖書を知る人々に伝道するために出かけていこうとしていました。
ところが、パウロとシラスのあとをついて回る薄気味悪い女がいました。占いの霊にとりつかれ、それを商売にしている女奴隷でした。彼女の主人たちは、彼女が悪霊の力による占いで商売をさせてもうけていたというわけです(16節)。この女奴隷は、パウロたちをいわば「ほめ殺し」にして伝道の邪魔しました。「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」間違ったことを言っているわけではありませんが、薄気味悪い女がついて回って始終ギャーギャー叫ばれたのでは、伝道ができません。それも、来る日も来る日も同じことの繰り返しです。そこで、「困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け」と言った。すると即座に、霊は出て行った。」(18節)のです。ここには詳細は記されていませんが、女は悪霊から解放されて、正気になり、闇から光に、絶望の人生から希望の人生へとうつされたのです。
ところが女が健康になって怒ったのは、この占い女奴隷を金づるにしていたやくざな主人でした。彼らはパウロとシラスを捕まえると、町の広場につれて来て、役人に引き渡します。昔は公開の裁判の場所でした(19節)。彼らの訴えは20節、21節にあるとおり、でたらめです。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」主人は自分が女奴隷を金づるにして商売をしていたら、パウロが女を悪霊から解放して健康にしてくれたので、商売にならなくなった営業妨害だと訴えるわけにもいかないので、ローマ人の反ユダヤ主義愛国心感情をあおったのです。実は、このころクラウデオ帝がユダヤ人を都ローマから追放しています(使徒18:2)。反ユダヤ主義のかたちをとったローマ愛国主義の嵐が帝国内には吹き始めていました。ローマ帝国の直轄領、ピリピにあってはその風潮は強かったことでしょう。
愛国心をあおられた群衆は、ワーワー騒ぎ立てました。パウロは反論しようとしたはずですが、暴徒と化した群衆を前になんの申し立ても聞かれようはずもありません。長官たちは群衆の機嫌を取ろうと、取り調べもせずにパウロとシラスを何度も鞭でうちすえ、投獄してしまいました。実にめちゃくちゃです。看守は、逃亡を防ぎ、二人に足枷をしてしまいます(22−24節)。囚人につける足かせというのは、いくつも穴のあいた木材で、穴に足をはさんだまま、股裂き状態で放置する拷問の道具でした 。
 しかし、ローマの法律によれば鞭打ちの刑はローマ市民に適用してはならないと定められていたのです。キケロは「ローマ市民を足かせに入れるのは犯罪であり、むち打つのはスキャンダルであり、殺すのは尊属殺人である 」と言いました。訴えた男たちも、長官たちも、まさかユダヤ人であるパウロとシラスがローマ市民権を持っていようとは思いもよらないことでした。

2. 看守の求めた「救い」

パウロとシラスは鞭打たれ、足枷をはめられて股裂きにされて獄に投ぜられました。夜が更けてゆきます。鞭打たれ皮膚が裂けたところが痛み、足枷によってひどい痛みにさいなまれる中で、パウロとシラスはどうしていたのでしょうか。信じがたいことに、パウロとシラスの心の深い所から、主への賛美が湧き上がってきたのです。「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」(25節)
 いったい、この賛美はなんでしょうか?主イエスが山上の祝福でおっしゃった、あの喜びでしょう。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、またありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天において、あなたがたの報いは大きいのだから。」その朗々とした二人の賛美の声は、獄舎内に響き渡りました。囚人たちも看守もその賛美に聞き入っていたのです。主はイスラエルの賛美のうちに住まわれるとあります。囚人たちも看守も聖なる臨在を感じ、自分自分の犯した罪の重さを思って反省させられたことでしょう。
 ところが、突然の大地震。神が引き起こされた地震と見るべきです。「ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。」(26節)当時のローマの軍規では、囚人を取り逃がした看守は、その囚人が受ける刑罰を受けなければならないということになっていました。パウロとシラス以外にも多くの囚人たちがおり、中には死刑囚もいたでしょうから、取り逃がした自分が死刑になるのは必定でした。昔の日本で侍が名誉を重んじて自ら詰め腹を切ったのと同じように、ローマ帝国の軍人たちもストア派の倫理観で、処刑されるよりも自決するほうが名誉ある死に方であるという風に考えて自決したものでした。囚人たちが逃げてしまったと早合点した看守は剣を抜いて今まさに自殺しようとしました。(27節)
  そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫びました(28節)。本当に不思議です。なにが不思議か?パウロとシラスだけでなく、囚人たちは誰一人として牢獄から逃げ出そうとしなかったことが、です。囚人たちは誰一人逃げ出さず、看守が来て鎖をかけ鍵をかけてくれるのをおとなしく待っていたのです。パウロとシラスの賛美の声に聞き入って、聖なる主の臨在にふれていたからにちがいありません。それ以外にどんな理由が考えられるでしょう。
 看守はその不思議に胸打たれました。そこでパウロとシラスのところに駆け込んで、その前に震えながらひれ伏してしまいます(29節)。そして、彼らふたりを外に連れ出して言いました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」(30節)看守が求めた救いとはなんでしょうか。肉体の生命の救いではありません。囚人たちが逃亡しなかったことで、すでに肉体の生命の危機は去っています。では、看守はどういう救いを求めたのでしょうか。それは、パウロとシラスは持っていて自分の持っていないものでした。無実の罪で辱めの鞭を受け、足枷で苦しめられ、投獄され、死が迫っても決して揺るぐことのない人生の土台ともいうべきものです。どん底に突き落とされても、内側から湧き上がってくる確信と喜びを二人の伝道者は持っていました。それに引き比べ看守はどうでしょうか。つい先ほどまでは自分は安泰であり、自分の看ている死刑囚たちは死の危機に瀕しているのだと思い込んでいましたが、地震が起こったとたんに自分が絶望と死に直面させられたのです。衝撃でした。自分の人生には、なんの確かな土台も無いということに看守は気づいたのです。救いが必要だと悟ったのです。だから、言いました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」
 あなた自身は、この確かな救いを持っているでしょうか?
 
3.応答「主イエスを信じなさい」と約束

パウロとシラスは即座に答えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」何者にも揺るがされない、この世の人生の危機にあっても、死にさえも揺るがされない確かな救いを得るためにしなければならないこと、それは、「主イエスを信じること」です。なぜなら、神の御子イエスこそが、人間を創造してあなたに生命を与えたお方であるからです。「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7)とあります。そしてまた、主イエスこそあなたの人生の終わりに戻って来られて、あなたの人生のすべてをご存知であられて、審判をなさり、ある人を永遠のいのちに、ある人たちを外の暗闇に追い出してしまう権威をお持ちのお方です。
ここで「信じなさい」ということばは、「の上に(エピ)信じなさい」ということばが用いられています。信頼してその方の上に乗っかりなさい、信頼してあなたの人生の全体重をこのお方に乗せて身を任せなさいという意味です。この世の富とか人などと、イエス様との二股をかけてはいけません。そういう二心の人の人生は股裂きになっていまいます。信頼しきって「私を救ってください。私はあなたにしたがって行きます。」と祈るときに、あなたの人生にも救いが現実となります。
罪が赦されたという喜びと、これからはひとりぼっちで永遠の滅びに向かっていくむなしい人生でなく、いつもイエス様がいっしょにいてくださる、最後には栄光の義の冠をいただける、神の栄光をあらわすという目的をもった意義ある人生を生きていくことができるようになります。
 
 しかも、看守に対する応答には一つの約束が伴っていました。「そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という約束です。それは看守が信じたら、自動的に看守が信じたら家族みんなが救われるという意味ではありません。看守は、時を移さずパウロとシラスを自分の家に連れて行って、家族に伝道をしてもらいました。そうして、家族みんながイエス様を信じて受け入れてバプテスマ(洗礼)を受けて、救われたのです。
「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。」(16:32−34)
 主イエスを信じ、伝道者を我が家に迎えて自分の家族が福音を聞く機会を提供することを通して、全家族の救いが実現します。家族のなかで先に救われた兄弟姉妹。あなたはあなたの家族に福音を聞き、受け入れる機会を提供したでしょうか。それは神の約束が実現するためのあなたの責任です。

付加.ローマ法
 群衆のごきげんをとるためにパウロとシラスを鞭打って投獄した長官は、一晩たつと二人の釈放を命じました。しかし、今度ふるえあがったのは長官でした。パウロとシラスはローマの市民権を持っていたからです。37節
「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。」
 ローマ市民権を持つ者を鞭打ちにすることも足枷をつけることも違法でしたし、ローマ市民権を持つ者は上訴する権利がありました。もしパウロが長官を皇帝に訴えるならば、長官は処罰されたでしょう。ですから、長官はその報告を聞いて震え上がって、あわてて牢屋にやってきて、上訴しないでくれと詫びを入れて送り出したのでした。

結び それはさておき、今日のみことばの中心は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」です。私たちは信ずべきものを信じなければなりません。自分の人生の全体重をゆだねるべきお方とは、万物を創造し、あなたにいのちを与えてくださったお方、あなたのためにいのちまで投げ出してくださった神の御子イエス様以外にあるでしょうか。
このお方、主イエスに立ち返るとき、罪は赦され、イエス様はあなたの人生の同伴者としてあなたとともに歩んでくださいます。そして、責任をもって輝かしい天の御国にまで導いてくださいます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」