苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

主が行い・教え始めたことを

使徒1:1-2 2009年8月9日 小海主日礼拝

「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書きお選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」


1 ルカ伝の続編として

 本日から使徒の働きをともに学んでまいります。きょうはイントロダクションです。
テオピロという人物の名は、ルカの福音書の冒頭にも出てきた名です。「 私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(ルカ1:1-4)ですから、1節でいう「前の書」というのはルカ福音書を意味しています。使徒の働きは、ルカ福音書の続編なのです。

 このようにルカの福音書使徒の働きはともにテオピロと呼ばれる人物に宛てて書かれたというスタイルをとっています。しかし、テオピロという人物はどういう人物であったかは知られていません。もしかすると、当時の文書を書くときの一般的なスタイルとして、誰か宛に書かれたという書き方があったので、そういう文学様式にしたがったのではないかと考える学者たちもあります。
テオピロが実在の人であろうと、あるいはこのイントロが文学的表現方法として書かれるために造られた名であろうと、ルカの福音書使徒の働きにしるされたことが歴史上の事実であることには、なんら違いはありません。
文学様式として誰かにあてて書かれたスタイルをとったのだとする根拠は、テオピロという名にあります。興味深いことに、テオピロという名は、テオスすなわち神とピロスすなわち愛ということばをあわせた「神の愛」とか「神は愛である」という意味と解することもできる名です。そうだとすると、ルカは本書を神に愛されているすべてのキリスト者に対して書きますよと言いたかったのだということになります。つまり、読者である私たちひとりひとりがテオピロなのです。 

2.知行合一

 さて、この前置きの中で次に注目しておきたいことばは、「イエスが行い始め、教え始められた」という表現です。イエスにあっては「行い」と「教え」とがワンセットになっていました。イエス様がなさったことは、ことばだけの教えではなくて、同時に行いでした。行なうことは教えることでした。
 主イエスは「あなたの敵を愛しなさい」とお命じになると同時に、実際に、ご自分の敵を愛されました。あの十字架の上で自分を憎み、辱め、殺す敵を愛して祈られました。イエス様の教えには常に模範がともなっていました。イエス様は、教えられたそのままに、これを実行されたのです。イエス様は弟子たちに「伝道しなさい」と言われる前に、まずご自分が伝道をなさって、それから弟子たちに伝道のしかたをおしえました。イエス様は、まずご自分が祈りの生活をなさっていました。その祈りに主イエスの平安と力の秘訣があると悟った弟子たちが、「私たちにも祈りを教えてください」とおっしゃったとき、主イエスは「では、このように祈りなさい」とおっしゃって、「主の祈り」を教えられたのです。
 主イエスにあって、教えることは行なうこと、行なうことは教えることでした。主イエスの教育は常に模範でした。主イエスは、「わたしについてきなさい」とおっしゃいました。「わたしは行かないけれども、行き先と行き方を教えるから、あなたは行きなさい」と言わないで、「この私がまず行くから、ついてくるがいい」とおっしゃいました。「わたしが私の十字架を背負ってゴルゴタへの道を行くのだから、あなたたちもそれぞれ自分の十字架を背負ってついてきなさい。」とおっしゃいました。イエスにあっては、教えることと行なうこととが一つでした。知行合一です。行いと教えが一つでありますから、その教育は模範なのです。
 教育とは模範であるというと、私たちは自分の罪深さ、ふがいなさを自覚していますから、逃げ出したくなります。親は子どもに模範を示さねばならない。牧師は信徒に模範を示さねばならない。教えることと行なうことが矛盾してはならない。そういうふうに思うと、「ああだれかこの任に堪えられるだろうか」と思います。そして、つい「私を見ないで、主イエスを見てください」と言って逃げ出したくなります。けれども、主イエスは「行いと教え」は本来ひとつのものなのだとおっしゃいますから、私たちはここから逃げてはいけないのです。行いと教えが切り離されてしまったら、それこそ主が最も憎まれた悪質な宗教である偽善宗教に陥ってしまうではありませんか。
 私はイエス様のように神の御子ではありませんから、みなさんに申し訳ないことですが、教えと行いが完全に一致した完全な模範を見せることはできません。つまずきを与えてしまうことがありましょう。けれども、なんとかして誠実に、もがきながら、自分の行いと教えが一致するようにと生きていきたいと願っています。偽善だけは避けたいので、その、主に従うことを目指しながら、失敗して悔改めて、また立ち上がってというもがきながらのみっともない姿も含めて、模範であるほかないと思っています。
 もちろん神様は、教えと行いが一致することを牧師にだけ求めているわけではありません。みなさんひとりひとりに、すべてのクリスチャンは、世界の光であり地の塩であると主はおっしゃいました。世の人があなたがたの良い行いを見て、天の父をあがめるようにしなさいとおっしゃいましたから、キリスト者がその行いと教えが一致していることが求められています。その口で語るイエス様の福音を、その生き方であかしすることが期待されているのです。完全にはできないでしょう。でも、誠実に主のみこころにしたがうことを求め、失敗しては悔改めつつ、神とともに生きていくのです。

3 主が始めたことを

 もう一点、「イエスが行ない始め、教え始められた」という表現で注目すべきことは、「始めた」ということばです。イエスは、世界の救済のために行いを始め宣教を始められて、それは使徒たちに引き継がれた、それがこの使徒の働きに書かれていますよということが意味されています。
では、主イエスが行ない始め、教え始め、使徒が受け継いで、それで完了したのでしょうか。そうではありません。使徒の働きは、その末尾にもある特徴があることがしばしば指摘されます。使徒28:30-31
「28:30 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、 28:31 大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」
 使徒パウロは、異邦人への使徒として召されましたから、その宣教の働きの初めから異邦人の帝国の都ローマに行きたいと願っていました。ついにその念願かなって帝国の都ローマに到着しました。神様は不思議な方法でパウロをローマへと連れて行ってくださいました。彼は未決囚として、ローマに護送されて、ここで自由に大胆に伝道をすることができたのです。そのことが、ここに記されているのですが、末尾を読んでみて、なんだか大団円というには、尻切れトンボという印象が強いではありませんか。途中で書くのをやめてしまったような印象。インクがなくなったのか、紙が切れたのか・・・。普通の作品ならば、ローマ皇帝パウロはこれこれこんなふうに伝道した、その結果、こういうことになったかくかくしかじかというようなことが書かれていてもよさそうなものです。でも、あきらかに尻切れトンボです。
 わたしたちは、この尻切れトンボ状態から、主イエスが行い始め、教え始められて、使徒たちが引き継いだことは完結しておらず、その後の2000年間に渡る教会の世界宣教の歩みとしてずっと継続されているのだというメッセージを読み取るべきなのです。そして、2000年たってなお、また主の行いと教えとは終わっておらず継続中なのだということです。ということは、主イエスが「行ない始め、教え始めた」その宣教の働きは、主イエスの再臨の日まで続いており、私たち小海キリスト教会も、主イエスが行ないはじめ、教え始められたそのみわざを引き継いで参与すべきなんだということです。
 他人事ではありません。過去の出来事ではありません。今、私たちが主イエスから引き継いだ福音宣教のわざを行なうにあたって、きっとこ、この『使徒の働き』から大切な原則を味わうことができるのです。そういう期待を抱いて本書を味わってまいりたいのです。

4 「使徒の働き」は「聖霊の働き」

 もう一つ注目すべきことば、第四点目がこの最初の2節には記されています。それは主イエスが「お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」という特徴ある表現です。
 ここで「命じた」という内容は、大宣教命令すなわち世界宣教命令を意味しています。ルカでいえば、
「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカ24:46-48)です。
 いつも申し上げるように世界宣教命令は、各福音書使徒の働きに記されていて、その内容はすべての人に福音を聞かせることと、悔改めた人を主の弟子とすることという二つのことから成っています。
 では、「聖霊によって命じる」あるいは「聖霊を通して(dia)命じる」とはどういう命令の仕方なのでしょうか。聖霊の力を注ぎながら命令するということでしょうか、聖霊がともにあなたがたとともにいるのだよとおっしゃりながらということでしょうか、今ひとつはっきりとはわからないのですが、使徒の働き全体の内容との関連から、はっきりとわかることは、使徒たちによる世界宣教は、実は、聖霊によって展開されていくのだということです。そのことをこの「聖霊によって命じた」ということばは示しているのでしょう。主は使徒たちに世界宣教の命令をお与えになりましたが、その命令を実際に行なうために聖霊を賜ったからこそ、彼らはこれを実行できたのです。やはり、教えると同時に行なうことが伴うようにしてくださるのが神様なのです。
 本書は『使徒の働き』と一般に呼ばれ、口語訳では『使徒行伝』新共同訳では『使徒言行録』と題せられています。たしかに主イエス使徒たちがエルサレムに始まってユダヤ、サマリヤ、そしてローマへと伝道が進んでいくことが記録されているのですが、注意深く読んでみると、使徒たちは常に聖霊に導かれ、聖霊に満たされ、聖霊に励まされて宣教のわざを展開していくことに気づくでしょう。ですから、本書をさして、これは『使徒の働き』と呼ぶよりも、『聖霊の働き』『聖霊行伝』と読んだほうが適切だと指摘する人たちもいるのです。まさにそうだと思います。
 実際、本書は、第一章で主がくださった聖霊バプテスマの約束、第二章はその成就、そして、その先聖霊に満たされた使徒たちが、福音を伝えていくのです。

結び
 ルカは、神に愛されているテオピロに、この使徒の働きを宛てて書きました。神に愛されている兄弟姉妹、この書は、私たちにあてて与えられたのです。
それは私たちもまた、神の愛に答えるためです。私たち行いと言葉をもって、主から使徒へ、使徒から世々の教会へと引き継がれた主の福音をあかししてまいりましょう。主はそのために私たちに聖霊をくださいました。