苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

召しと模範

 きょう、神学校の1学期の最終講義だった。ほっと一息。担当は教会史概論で、1学期は初代教会に始まり、中世に入ったところで終わり。今年は新たな試みとして、わずかだが、シリア教会、アッシリヤ教会によるインド、東方の宣教に触れた。
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 神学校の行く末を心配する日々のなかで、主イエスがどのように伝道者を教育なさったのかということを意識して福音書を読んでいた。そうしたら、とてもシンプルな原則が「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」という言葉に集約されていることに気づいた。ここに2つの牧師伝道者訓練の原則が含まれている。
 第一原則は、召しということ。主は誰にでも「わたしについて来なさい」と声を掛けられたわけではない。イエスは出会って、救いにあずかった多くの人々には、家に帰るようにしむけられ、彼らは神をあがめながら自分の家に帰っていった。主イエスはただ十二人にのみ「わたしについて来なさい」と声を掛けてお召しになり、彼らを身近に置いてグループとして特別に牧師伝道者として訓練された。召された彼らは、網を捨て舟を捨て、親までも後にして、主に従った。主イエスは、召しに応答して、人間をとる漁師になるためにすべてを捨てた者たちだけをグループとして訓練なさった。目的意識、覚悟において一致していてこそ、牧師伝道者の訓練は功を奏する。目的意識と献身の覚悟が一致していなければ、一定水準の訓練をほどこすことは不可能である。
 第二原則は、自らが模範となることである。昨晩、A伝道師と主日のために説教演習をしていたとき、A師が「主イエスは私たちに『行け』というだけでなく、自ら先立って行かれて、わたしたちにその後についてきなさいとおっしゃるお方だからこそ信頼してしたがえます。」と話された。私は、なるほど!と、目からうろこが落ちた。確かに、「わたしについて来なさい」と言うことばは、「わたしが先立って行くから、わたしの足跡にしたがって来なさい。わたしを模範としなさい。わたしがするようにしなさい。わたしのようになりなさい。」という意味である。したがって、牧師伝道者の教師は、牧師伝道者の模範者でなければならない。これは大変なことで、私は今はとりあえず神学校教員のはしくれだから、逃げ出したくなるようなことだが、確かに主イエスが教える牧師伝道者教育の第二原則は模範である。逃げるわけには行かない。一歩でも模範者に近づけるように、精進したい。パウロも「私のようになりなさい」としばしば奨めた。
 神学校の体制が変わろうとしているなかで、「わたしについて来なさい」というみことばに示された、この二つの原則がたいせつにされることを願う。