苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)

(1)「ヒトラーが首相になったのは、選挙に勝ったからではない。ヒンデンブルク大統領が任命したからだ。」
 1932年7月第一党になったとはいえ、すでに低落傾向にあったナチ党であったが、ヒンデンブルク大統領は、あえてヒトラーを首相に選んだ。ヒンデンブルクは、国会を軽視して大統領緊急令を連発して政治を進める手法をあえてするような政治家だった。
 ヒンデンブルクは保守政治家として議会民主制を廃止すべきだと考えており、共産党社会民主党を抑え付けるためにナチ党を利用しようと考えた。そして利用するだけすれば、大統領大権をもちいてヒトラーを首相の座から追い出せばよいと安易に考えていたのだが・・・。


(2)授権法(全権委任法)成立経緯
 1933年3月の国会選挙戦の最中、国会議事堂放火事件を機会として「国民と国家を防衛するための大統領緊急令」が出された。これは集会と言論の自由に制限を加え、政府批判を行う政治組織の集会、デモ、出版活動等々基本的人権を禁止した。ナチ党のみはラジオ放送を活用して選挙宣伝を行い、野党を攻撃したが、野党は大統領緊急令ゆえに意見表明すらできなかったから、選挙はナチ党の勝利となった。

ヒンデンブルクは大統領緊急令を頻発することによって、少数与党による政権運営をしてきたが、これは違憲だとの非難が生じてきた。そこで、大統領は、立法権を政府(首相)に与え、議会を無力化すればよいと考えた。もともとヒンデンブルクは議会政治をやめたいと考えていた。このあたりヒンデンブルクは不見識であったというそしりは免れまい。こうして授権法が成立した。これによって、ヒトラーは議会政治を終わらせ、国会に責任を負うことも、大統領に依存することも必要がなくなった。この授権法を用いて、ヒトラーは次々にナチ法を成立させていく。

もうひとつ注目点。授権法は時限立法として成立させられたが、実際にはドイツ敗戦まで続いていく。当然のことである。政府が立法権を手に入れれば、政府は自らが何をやっても合法的になるような法律を作ることができるのだから。
 ヒトラーは首相になった当初は閣議をまめに開いていたが、彼が総統になるとその回数は見る見る減っていきついにはまったく開かなくなった。33年には年に70回開いた閣議が、総統となった34年には年に21回、35年には11回、36年には2回、37年には6回、そして38年には一回。そしてまったく開かれなくなる。法案は国会審議なしでヒトラーが署名してただちに成立した。33年209件、34年187件、35年133件、36年82件、37年96件、38年94件、39年62件。(p195)


(3)なぜ国民の大半は、ヒトラーの政治弾圧を見ながら反発しなかったのか?
「非常時に多少自由が制限させるのはしかたない」とあきらめた。
「過激な共産主義者が一層されれば廃止されるだろう」
基本的人権が停止されたといっても、共産主義社会民主主義に染まらなければ弾圧もされないだろう」
「いっそヒトラーを支持して体制側につけば楽だし安泰だ」
・・・・と、他人事として考えていた。なんだか、今の日本にいて、身につまされる。


(4)各界がヒトラーを礼賛し始める
「いっそヒトラーを支持して体制側につけば・・・」という動きの中、ドイツ各界の権威がヒトラーを礼賛し始める。
 政界・軍からは、大統領ヒンデンブルクがかつて「ボヘミア上等兵」と軽蔑したヒトラーにお墨付きを与え、宗教界からはプロテスタントカトリックキリスト教会がヒトラー支持を訴えた。プロテスタント神学者で代表的教職だったオット・ディベリウス主教はヒトラーを賛美(その後、公職を追われて目が覚めて告白教会に加わる)。ドイツを代表する知性、哲学者マルチン・ハイデガー、法学者カール・シュミットもナチ党員となる。(キッテル、アルトハウス、ヒルシュといった聖書学者、神学者たちもナチス礼賛に走った。)

 ほんの少し前、「ボヘミア上等兵ヒトラー」と、私兵突撃隊や親衛隊を備えたゴロツキ集団とみなされたナチ党が、このころになると知識層からも礼賛されるようになっていった。なぜだろう?彼らの保身を動機としたのか、ドイツ民族至上主義という訴えが彼らの魂をとらえたのか。その両方だろう。


(5)ナチ党以外の政党に圧力をかけて解党させ、ナチ独裁を成立させると、ヒトラーは7月6日「国民革命」終結宣言をする。ヒトラー政権発足から半年もたっていない!
翌週7月14日、政党新設禁止法、国民投票法、遺伝病子孫予防法、国民の敵・国家の敵の財産没収法を制定。この日はフランス革命記念日。石田氏は「ドイツがもはや西欧的理念を共有せず、むしろそれを否定する国であることがはっきりと印象付けられた」と表現する。

このくだりを読むと、「(自民党改憲草案作成にあたり)天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。」(片山さつき)とか、「日本は道義大国となりうる唯一の国です」(稲田朋美)とか「憲法から基本的人権国民主権・平和主義をなくさねばならない」(長勢甚遠)とかいう現在の自民党政治家たちの発言を思い出さないではいられない。


(6)ヒトラー政府の、それ以前の政府とのきわだったちがいは、啓蒙宣伝省を設置したことである。担当者はゲッベルス
①公営放送局の人事に介入し政権に批判的なメディア関係者を弾圧
②国民向けの啓蒙宣伝活動をスタートした。
③非合法化された共産党社会民主党、左翼系労働組合の新聞、雑誌は廃刊とされた。
プロパガンダは政治指導者が特定の情報を大衆に伝え、大衆を誘導するものである。自らに不利な情報はいっさい伝えず、有利な情報のみを誇張、潤色、捏造をまじえて流し、大衆の共感を得る。

 いつぞや副総理が改憲にかんして「ヒトラーの手口に学んではどうかな」と発言したことを思い出す。そしてNHKの人事への露骨な介入や、政府に対して批判的な民放のキャスターたちの更迭。


(7)国民は「背に腹は代えられない」のか

 暗然とさせられた記述がありました。
「戦後初期の西ドイツで実施された住民意識調査(1951年)によると、『20世紀の中でドイツが最もうまくいったのはいつですか。あなたの気持ちにしたがってこたえてください』という問いに、回答者の40パーセントがナチ時代の前半を挙げている。これは帝政期(45パーセント)に次ぐ高さで、ヴァイマル期(7パーセント)、ナチ時代の後半(2パーセント)、1945年以降(2パーセント)を大きく引き離している。
 たしかにホロコーストのような国家的メガ犯罪が本格化したのはナチ時代の後半だ。しかしナチ時代の前半すでに、政府の政治弾圧や人権侵害は公然と行われていたし、反ユダヤ主義が国家の現地となったこともあきらかだった。」

 理由は何だろうか?
 ひとつには、政治弾圧、人権侵害、反ユダヤ主義といったことは、国民の大半にとっては「他人事」であったということ。
 もうひとつは、ナチ時代前半、ヒトラーは1932年には557万5000人に上る失業者を1939年には11万9000人にするという雇用対策の成果を挙げたから。それは公共事業と企業減税による経済活性化によってなされた。公共事業として著名なのはアウトバーン建設だが、巷で言われるほどには役に立たなかったという。また一家に一台フォルクスワーゲンを目指したが実現はできなかった。 18歳になった若者に半年から1年間、厳しい規律をともなう集団生活のなかで土地開拓、道路建設、農村での補助労働などを義務化した。これは徴兵制復活にむけての準備であった。

<感想>
 読みすすめるほどに「ナチスの手口」と現今の第二次安倍政権の動きに重なり合う面があることに気づきます。
 ただ大きく違うのは、現政権はナチスのようには経済において華々しい成果を上げることができず、逆に破綻が見えてきているという点です。国民が経済的苦境にあえいでいるのは残念な現実ですが、反面、それゆえ国民が現政権を熱狂的に支持することになっていないという点ではましだといえるでしょうか。