苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造からバベルまで・・・XXVII バベル  (最終回)

 創世記10章はノアの子セム、ハム、ヤペテから出た諸民族の表です。次の11章バベルの事件は、民族がそのように分かれたことの原因譚であると理解されます。

1 権力者の出現

 悪を滅ぼすための大洪水が終わり、人類が再出発しようとするとき、神は悪を抑制し社会秩序を保つために剣を持つ権威をお立てになりました。「人の血を流す者は、人によって、血を流される。」(創世記9:6前半)誰も暴力を振るわないならば、警察がピストルを持つ必要はありません。誰もスピード違反しないなら、制限速度標識だけあれば十分です。しかし、残念ながら罪の現実ゆえに、法律と武器と刑務所という暴力装置をもつ権力がいなければ、この世は治まらないという現実を聖書は告げています。
 最初の権力者がハムの子孫ニムロデであったと聖書は告げています。彼は「主の前に力ある猟師であった」とあります(口語訳)。古代エジプトの壁画にも見られることですが、古代の王は恐ろしい野獣を仕留める偉大な英雄としてたたえられるばあいがあったようです。日本武尊ヤマタノオロチを退治したみたいな話です。「ニムロデは地上で最初の権力者となった。」(創世記10:8)ニムロデにその自覚があったかどうかわかりませんが、彼は神のしもべとして、悪を行う人には剣をもって報いて社会秩序を維持するために用いられたわけです。
「それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。」(ローマ13:4-6)

2 箱物行政の始まり


ところが、権力者はしばしば高ぶって、神の裁きを受けるものです。ニムロデの王国は、「バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地に」ありました(創世記10:9,10)。このシヌアルの地こそバベルの塔が建てられた地でした。
「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住し」ました(創世記11:1,2)。人々が移住してきたのは、東方が住みづらかったからでしょう。彼らは、チグリス、ユーフラテスの両大河に潤される地を見つけて住みつくと、石材の乏しいこの地にレンガで町を築き、やがて大建造物をも築く技術をも得ることになります。
ところが、そのうち人々は言うようになります。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11:4)塔建設の目的は、自分らの名を上げることでした。バベルの塔はニムロデの権力のシンボルでした。「箱物行政」ということばがあるように、古来、権力者は巨大建築を好みます。なぜか。自分の名を後世にまで鳴り響かせるためにです。巨大ピラミッドのゆえに私たちはクフ王という名を知っており、ヘロデ神殿といえばヘロデ大王東大寺といえば聖武天皇大阪城といえば秀吉、「バブルの塔」と揶揄された新宿都庁ビルといえば、当時の都知事の名を思い起こすわけです。あれ?あの都知事の名はなんでしたっけ?・・なんて意地悪なことを言ってみたりして。

3 バベルからバビロンへ

 バベルの出来事が、私たちに教えるもう一つのことは、都市の神格化です。カインが神に背を向けてエデンの東に町を築いて以来、えてして都市は神になり代わる偶像的存在です。都市は人工物に満ちているので、その住民は、創造主の世話にならなくても、自力ですべてのものを造り出して生きることができるという錯覚に陥りがちです。高層ビル群、道路網、行き交う車、地下鉄、パソコンなどすべてが便利な人工物であり、ショッピング街、酒場、劇場、ギャンブル施設などが提供する快楽も人工の快楽です。
 バベルで言語が分けられて人類の分裂が起きて後、人類の歴史は民族と民族、国と国との数え切れないほどの争いの連続です。その歴史のなかで多くの都市が誕生し、そして、それらの都市はことごとく戦乱や災害で滅びてきました。田園を爆撃する者はいません。軍事的目標は常に都市です。富には権力と欲望が集中しているからです。また、ソドムやゴモラもまずメソポタミア都市国家連合によって攻撃を受け(創世記14章)、それでも悔い改めないでいたところ、天から注ぐ硫黄の火によって滅ぼしつくされてしまいました(創世記18章)。人類史のなかで有名な類似の出来事は、ベスビオス火山の大噴火によって一日で滅亡したポンペイの町があります。ポンペイはソドムと同じような甚だしい性的紊乱の町として有名でした。
 本来、神の都であったはずのエルサレムでさえ王国時代末期には偶像の都と堕してしまって、ついに紀元前五八六年、ネブカデネザル王に滅ぼされます。しかし、ネブカデネザルもまた、バベルにちなんでバビロンの都を築いた権力者であり、バビロンもまた後に滅亡することになります。
 そして、新約聖書を見れば、ペテロの手紙ではバビロンという名はローマ帝国の首都ローマを指す隠語として用いられています(1ペテロ5:13)。しかし、殷賑を極める都ローマに身を置いたペテロは「人はみな草のようで、その栄えはみな草のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とイザヤの預言を引用しつつ、都ローマの衰滅を予告するのです。
 ヨハネ黙示録では、バビロンという古代都市の名は神に反逆し、ついには聖なる審判を受けて滅びる終末の都市ないし都市文明を象徴する名として用いられていきます。ヨハネ黙示録は、終わりの時に世界を支配する大消費文明都市を「大淫婦バビロン」と呼んで、これに対する神の審判を告げています。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行い、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」(黙示録18:2,3)
*参照:ジャック・エリュール『都市の意味』

4 アブラハムと世界の救い主の約束

言語は、創世記第十一章のバベルの事件で、分けられましたが、諸部族が住む地域が分かれることによって、さらに分化して行って、現代世界に存在する言語は千数百とも数千とも言われています。民族と民族の争いはあの日から絶えたことがありません。
けれども、バベルの塔の事件が記されたすぐあと、創世記十一章の末尾にセムの子孫の中にアブラム(後のアブラハム)の名が現われることに注目しましょう。神は、世界にひろがる諸民族の中から、アブラハムを選んで、彼を信仰の父とし、彼の子孫の中から世界の諸民族の救い主キリストを登場させるという約束をお与えになるのです。主はアブラムに仰せられました。
「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記十二:一-三)
 バベルで分けられてしまった人類は、アブラハムの子孫として到来するキリストにあって一つにされて世界の相続人となるのです。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:28,29)
そして、ついに終わりの日には、滅ぼされたエルサレムまでも贖われて、花婿キリストのもとに聖い花嫁として天から下ってくるのです(黙示録二十一:二)。 マラナ・タ!

(以上「創造からバベルまで」)