苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

カインとアベルの出来事と創世記の理解


 今年の家庭菜園はたくさん収穫がありました。

 

人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4:1−7口語訳聖書)

 なんだか、口語訳聖書では神のカインに対する「ですます調」が奇異な感じがするのだが、それは措くとして、なぜ神はカインとその供え物を顧みられなかったのか? この問いは聖書をいかに解釈するかという課題にとって、重要なことであると思う。
  アベルの供え物は「真心がこもっていて」、カインの供え物は「真心がこもっていなかったから」なのか。新改訳は「ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。」と、ことさらにカインとアベルの供え物にこめられた「真心」の違いを強調する訳文を工夫しているのには、そういう解釈が背景としてあると思われる。だが、果たしてそれは正解なのだろうか?
 創世記4章のこの記事を正しく解釈するには、創世記というものがモーセ五書の中の一書を成すものであることをわきまえることが大切である。すなわちシナイ契約において与えられたモーセ五書という大文脈の中で、カインとアベルのささげ物の出来事は理解されるべきである。シナイ契約における祭儀の原型をカインとアベルの供え物の事件をここに見るべきであろうし、そのように読まれることを意図して書かれていると思うからである。だとすれば、カインのささげたものは畑の作物であり、アベルのささげたものは羊であったということにこそ、両者のささげ物の本質的違いがあったと見るべきだということになる。レビ記を見れば穀物のささげ物もあるにはあるが、それは血を流すささげものに伴ってささげられるものだった。「血を流すことなしに、きよめられることはない」というのが、シナイ契約におけるいけにえの基本である。
 カインが血を流すささげものをすべきであることをあらかじめ知っていたことは、怒って顔を伏せたカインに対する主のことばからあきらかであろう。「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。云々・・・」父母から教わっていたのか、あるいは、彼らにあらかじめ啓示されたのか、おそらく前者であろうが、いずれにせよ、カインは主の求めたまうささげ物についての知識をあらかじめ持っていたと解される。
 では、地を耕すことを生業とするカインはどうすればよかったのか? むずかしいことではない。アベルにわけてもらえばよかったのである。「アベル。主にささげ物をしたいから、地の作物と肥えた羊を交換してくれないか。」とひとこと言えばよかったのである。しかし、あえて、そう言わなかったことにカインの問題があった。カインとしては、自分が心を込めてささげ物をするのだから、神が受け入れてくれるのはあたりまえだ、という考え方をした。つまり彼の問題点は、「俺流の礼拝」を神に押し付けようとしたということである。
 神へのささげ物において真心はもちろんたいせつである。だが、その「真心」は神に対して自分流の礼拝を押し付けるようなわがままなものであってはならない。神の求めにしたがう謙遜な真心であることがたいせつである。
 聖書的な礼拝の原点が、ここに現われているということもできる。きたるべき真の小羊キリストの血によってこそ、罪ある私たちは神の前に礼拝をおささげすることが許されている。真の礼拝は、キリストの贖罪を抜きにした、単なるキリスト教風の「真心が大事です」というだけの道徳講話の会に堕してはならない。キリストにある罪の赦しが告知されることが必須である。