苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

さすがに、呆れました。

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 200億円を超える税金を、こんな使い方するとは・・・・正気なのか?

 

 東京新聞の記事で読んだのですが、新型コロナ肺炎が、これだけ世界に広がってしまった以上、制圧することは無理なのだそうです。というのは、仮に日本国内で制圧しても、外国から感染者が入ってくると、またぶわーっと拡がるからです。

 で、結局、はしかのように集団免疫が形成されるまでは、感染は止まらないとのことです。免疫を獲得するには、新型コロナに罹って生き残ることです。だいたい人口の7割か8割が免疫を獲得すれば、感染騒ぎは収まるだろうと推測されていました。ですが新型コロナにふつうに罹ると、かなり危険なので、ワクチンという形で軽く罹るというのがよいわけです。そういうわけで、ワクチン開発が急務です。お金を200億円も使うなら、たとえば、そういう開発に重点配分すべきではないでしょうか。あるいは、これほどお金があれば、感染拡大にともない、急激に必要増が見込まれる人工呼吸器なら6000台買えるとのこと。

 

渡辺信夫先生天に召される

 3月27日、渡辺信夫先生が天に召されたそうです。先生との出会いは、最初は大学時代で確か清水書院の人と思想シリーズの『カルヴァン』という本であったように記憶します。その後、『教会論入門』。訳書『基督教綱要』旧版。『カルヴァンの教会論』・・・
 そして、たしか日曜日訴訟の関連の集まりだったような気がするのですが、同じ宿の部屋に泊まってお話する機会がありました。それが先生の声咳に接した最初でした。
 その後、信州夏期宣教講座でのお交わりをたびたび許されました。ああ、そうそう、東京告白教会でもようされた、教理史講義にも2,3度出かけてお邪魔しました。教理史講義では、先生の静かな、そして長く長く長ーいお話に眠り込んでしまい、眠り込んだにもかかわらず、どうしても質問したことがあって、お話が終わったとたんに、「はい!」と手を挙げて質問をしたことがありました。先生は眉一つ動かさず、静かにお答えくださいました。帰りの車中、一緒に出掛けた小寺先生や菅原先生から、「水草せんせー、心臓に毛が生えてるなあ。」と笑われました。
 先生は誰もが知る我が国におけるカルヴァン研究の第一人者でしたし、よくもまあこんなに本を読んでいらしたんだなあとびっくりするような碩学でいらっしゃいましたが、それは先生が伝道者・牧師として世に遣わされた使命を果たすための道具立てのためであって、目的ではありませんでした。先生は基本的人権、格別、信教の自由にかかわる多くの訴訟にもかかわってこられましたが、それは人権のためでなく(と言いすぎないことも大事ですが)、先生の信仰告白としての行動であったのだと思います。
 いっしょにあの信州の霊泉寺温泉に浸りながら、いろいろと聖書の話をしたことは楽しい思い出です。また、ある年の沖縄をテーマにした夏期宣教講座のとき、旅館の離れの集会室で、最後に参加者の集合記念写真を撮った時、床がその重量に耐えかねて抜けてしまい、危うく先生ご夫妻が穴に落ち込みそうになった出来事が、今も目に浮かんでしまいます。
 向こうに行かれたら、先生は義の栄冠を受けて、カルヴァンやルターとラテン語でお話なさっているのでしょうか。またお目にかかれることを楽しみにして、私なりに一生懸命、この道を最後まで走りとおしたいと思います。

われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく

 新改訳聖書における主の祈りの翻訳で前から気になっていることは、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ」と文語訳ではあった「ごとく」が訳出されていない点です。新改訳2017でも改められませんでした。ギリシャ語本文には、ホース(ごとく、ように)という比例を示す語があるのに、なぜ訳出しないのでしょう。
 おそらく人を赦すという行為を根拠として、神に罪を赦してもらうという功績主義の誤解を招かないためという、翻訳委員会の行き過ぎた配慮のためだと、私は推測しているんです。
 山上の説教の中には、主の祈りの直後には、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。・・・」とあり、また7章では、「さばいてはいけません、自分がさばかれないためです・・・・」と出てくるわけで、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ」と同調する、隣人に対するさばきと、神の私へのさばきが比例するというの思想が一貫して流れています。
 翻訳委員会は、「赦し」には、永遠の取り扱いという意味での赦しと、すでに神の子どもとされた者たちに対する父の取り扱いとしての赦しという、二つのことがあることがわかっていないので、「ごとく」と訳そうとしないのではないかと思います。
 主の祈りは「天にいます私たちの父よ」とあるように、「父よ」と呼んでいるのですから、すでに永遠の取り扱いとしては罪赦され神の子どもとされた者としての祈りです。罪赦され神の子どもとされた者として、父のもとで、祈るたびに赦すことを学びなさいと言われているのが、この主の祈りでしょう。

朝岡勝『喜びの知らせー説教による教理入門』

 朝岡勝牧師の『喜びの知らせー説教による教理入門』を読みました。十五回のシリーズ説教が原型だということですから、そこに会衆を意識して語られたことばとしてのいのちがあります。
 特徴の一つは、神の民、教会を最初から最後まで意識して語られた教理説教集であるということでしょう。教会論は著者の生涯のテーマです。
 私が特に共感を覚えたのは、あとがきに書かれた「十字架のことばの愚かさ」に徹するという点です。キリスト者の社会的責任とか文化命令とか包括的福音理解とかいうことの重要性は重々承知しながらも、反面、人間の罪の現実とキリストの十字架と復活が軽んじられる傾向があることへの危機意識ということです。先の東日本大震災に誰よりも精力的に奉仕した著者が、このように書かれたことに重みがあります。

クラスターだオーバーシュートだ

 クラスターとかオーバーシュートとかカタカナ英語が報道に踊っていて醜い。カタカナ英語は、日本人もわからないし、英語国民もわからない、単なる業界の隠語にすぎない。集団感染、爆発的感染といえばよいだけのこと。英語の堪能な外務大臣が指摘してくれて、溜飲がおりた。
 もし英語との対応を示したいなら、集団(cluster)とか、爆発的感染(overshoot)と書くならば意味がある。何年か前、東京基督教大学の案内冊子にもやたらとアドミッション・ポリシーだの何だの業界隠語が多かったので、教員をしている友人に「アメリカの植民地なのか」と注文を付けたことがある。もう一度書くが、カタカナ英語は日本人にも英語国民にも意味不明の業界隠語なのだ。まったく恥ずかしい。

 

 

 

山川異域、風月同天

 「山川異域、風月同天」ということばを初めて知りました。「山川ハ域ヲ異ニスレド、風月ハ天ヲ同ジクス」とでも読むのでしょうか。あなたと私は、山や川はある場所が異なるけれども、風と月は同じ天にある、つまり、同じ風に吹かれ同じ月を見るお互いですというふうな意味でしょう。住んでいる地域は異なっていても、あなたと私は友だということ。この一節がHSK日本事務局が、新型コロナ禍で苦しむ中国湖北省に送る支援物資の段ボールに添付したシールに書かれていたことに、支援を受けた中国の人々が感銘を受けたのだそうです。

 日本嫌いになったり日本好きになったり、忙しいですね。国民としてはお互い、政府の思惑によって操作されて右往左往せずに、変わらず友好的であり続けたいものです。

 

 

 

みなしご、やもめの訴え

「おまえの君主たちは強情者、盗人の仲間。みな賄賂を愛し、報酬を追い求める。みなしごを正しくさばかず、やもめの訴えも彼らには届かない。」(イザヤ書1章23節)
 近畿財務局元職員故赤木俊夫さんの夫人が、夫の無念をはらすために、森友学園問題の真相をあきらかにしたいと考えて訴訟を起こしました。しかし、首相と財務大臣は再調査するつもりはないと国会で発言しました。しかし彼らは、取り調べを受ける立場の人間ではないか、と赤木夫人が書いています。首相が真っ赤なウソをつき、それをかばうために財務大臣の部下が関係公文書の改竄を部下にするように指示し(おそらく暗示なのでしょうね)、それを実行させられた赤木氏が自殺に追い込まれたという事件なのですから、たしかに、夫人のいうのは正当な主張です。
 イザヤの時代、南ユダ王国は末期症状を呈していました。国家の末期症状のしるしとは、裁判に当たる者たちが賄賂を愛して、みなしご、やもめの訴えを裁判所が取り上げないことでした。みなしご、やもめとは社会的弱者の代表です。社会的強者は自分の財力や権力や暴力にものを言わせて、やりたい放題をする。そんな時代、社会的弱者の最後のよりどころは裁判所でした。しかし、その最後のよりどころの裁判官まで賄賂を取って裁判をねじまげていたのです。ユダ王国はほどなく滅亡しました。特に、ユダ王国には「祭司の王国」として神の御栄光を顕す任務がありましたが、その任務を放棄したからです。
 今、この国の司法が試され、この国がためされています。彼らは良心に照らし法に照らして裁判をするのか、それとも自らの保身と出世のために裁判をするのか。イザヤ書によれば、やもめやみなしごの訴えを退けるような裁判所しかない国家は滅びます。