苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

日常

 万年筆で手紙を書いて投函。明日の祈り会のために、コリント人への手紙第二の序論と一章の解説準備。註解書には、あまり神学的でなく実践的な書とあるけれど、そうでもないよなあという思いを抱く。札幌の神学校に組織神学キリスト・救済論の期末テストの出題を送る。

 お昼になって、家内が作ってくれたおいしいお弁当を食べて、百均で買ったチキンラーメンミニをプラスしたら、スープがおいしくて全部飲んでしまった。そのあと『舟の右側』の組織神学の連載原稿を書く。このところ、「相続」という概念が聖書理解の鍵であることに気づき、この観点から体系全体に思いを巡らしつつ、書いてみる。次の主の日の説教は朝は詩篇、夕礼拝は出エジプトの予定。
 四時になり、入院中のお二人を訪問する。私に聴く耳と、語るべきことばを賜るようにと会堂で一人祈るうちに、同行する妻がやってきた。一人は若い日に洗礼を受けながら、教会を離れていたけれど、病を得て主のもとに帰って来られた女性。迫りくる死に恐れを抱いていたけれど、訪問してみことばをお伝えするごとにキリストにある平安を得られた。今日は信州でおめにかかった天国から帰ってきた女性牧師の体験談をお話したら、たいそう喜ばれた。  もうお一人は脳出血後リハビリ中の人。目覚ましいリハビリの効果が上がり、人間のからだの筋肉の精巧な仕組みに感嘆して、神様はおられるという思いになられた由。神のことばが生きて働いてくださると実感できる訪問は、ありがたい。

  今日、苫小牧は風の強い日だった。

吉持章先生召天

 吉持章先生が今朝、召天されたとの知らせを受けました。奥様、ご遺族に主の慰めを祈ります。
 振り返れば、吉持先生には人生の節目節目でお世話になって来ました。私が初めて先生にお目にかかったのは、大学生のとき、土浦めぐみ教会のメンバーだったときのことです。当時、土浦めぐみ教会の牧師は朝岡茂先生で、吉持先生のJCCの少し後輩なのだとうかがいました。同盟教団では理事会の同僚という関係で、親友で良きライバルというふうな関係でいらして、一緒に旅行に出かけた話を「弥次喜多珍道中だったよ」と先生が楽しげに話していらっしゃいました。朝岡先生は身長180センチほどの長身で、吉持先生は小柄でしたから凸凹コンビだったのです。たぶん私が大学三年生の秋の特別伝道会の講師として吉持先生がいらっしゃって、初めてメッセージをうかがいました。心に残っているのはニコデモの話とサマリヤの女の話、そしてザアカイの話からの伝道説教です。
 私は大学卒業後、すぐに東京基督神学校に進み、三年間の学びを終えました。実は、最終学年の12月、朝岡茂先生は膵臓癌で天に凱旋して行かれました。私は神学校一年生の秋に、神戸の父を天に送り、今度は霊的な父であった朝岡先生を天に送ったことになります。そんななかで、同盟キリスト教団の補教師の受験をしました。最終面接は天城山荘の教団総会のときに行われました。面接のとき、居並ぶ理事の中で吉持先生がギロリとあの大きな目を開いて、私に質問をされました。「水草さんは、どうして同盟教団に骨を埋める覚悟をしたのかね?」これは私の推測ですけれども、先生は親友の朝岡牧師の遺していった献身者として私を見ておられ、気にとめていてくださったのであろうと思います。そして、私がもともと改革長老教会の出身者で、大学時代に同盟教団の土浦めぐみ教会に移籍したことを御存じだったのでしょう。また私が神学に関心をもっていて、青臭い生意気さが朝岡茂先生の逆鱗に触れたこともきっと御存じで、少々心配しておられたのだろうと思います。そこで、同盟教団に腰かけのつもりで入ったわけではあるまいな、という意味でぐさりと釘を刺されたのでしょう。私は「はい。私は視野の狭い人間なので、同盟教団のいろいろな先生方から多くのことを学びたいと思ったからです。」とお答えしたと記憶しています。
 補教師となり、練馬区でジェイコブセン宣教師とともに教会に仕えていた秋、そろそろ自分も身を固めなければならないなと考えるようになりました。そんなとき、十一月の下旬、ふと私の脳裏に春の教団総会で私の前をおじきをして右から左にかけぬけた山吹色のカーディガンを着た女性伝道師が浮かびました。しかし、風の便りに彼女には縁談が進んでいると聞いていたので、『みこころであれば、その縁談はなくなるだろう。祈って待とう。』と考えて、二か月ほど祈りつつ新年を迎えます。一月の半ばのある日、吉持先生からお電話がありました。
吉持「水草先生。結婚を予定している女性はいますか。」
私「いいえ。おりません。」
吉持「実は、浜松で伝道師をしているN姉に縁談を勧るのだが、うんと言わないのだよ。それで、誰か祈っている意中の人がいるのか?と聞いてみたら、水草先生のことを祈っているということなんだよ。」とおっしゃって、N伝道師がどれほど心配りができるすばらしい女性であるかということを電話の向こうで懇懇と話されました。そこで、私は、「実は、私も昨年11月からN姉のことを覚えて祈ってきました。」とお答えしました。すると先生は「それでは、この結婚はみこころでしょう。二人でどこかで会って決めなさい。」とおっしゃいます。数日後、私たちは会ってその場で結婚を決め、3月に茨木聖書教会で婚約式、11月3日に結婚しました。結婚式の説教は吉持章先生です。婚約式の日、先生は私たち夫婦に、「いたずら書きです」とおっしゃって、私たちの名を織り込んだ歌を書いてくださいました。

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 練馬での伝道者として三年目のお正月、宣教師の移動と私のいたらぬ牧会と教会の教団加盟と財政問題にかんする混乱の中、私はストレスで十二指腸から出血して緊急入院しました。赤血球値が正常の三分の一とかいうことで、貧血で昏倒したのです。全国の教会の兄弟姉妹に祈っていただいたおかげで、その出血部位は一夜にしていやされて、医者が不思議そうに首をかしげていましたが、一週間後に退院となりました。そして三月に、やはり天城山荘で正教師按手の教団総会となりました。最終面接に、またも吉持章先生が正面に座られました。先生は朝岡茂に育てられた、この生意気な若い伝道者は大丈夫なのかというお顔をしていらっしゃいました。按手礼で私の頭に手を置いて大きな声で祈ってくださったのは、吉持章先生です。
 宣教師御夫妻は千葉に移動され、その後私たち夫婦で教会に仕えてあわせて9年目の夏、三十代半ばになっていた私は、神学生時代からずっと祈ってきていた「葦原の志」つまり日本の田舎の教会がない地に教会開拓をするために立つことを決心をし、妻に告げました。妻は「従います」と答えてくれました。そのためにまず説得しなければならないのは、理事会と当時理事長をしておられた吉持章先生でした。私は理事会に自分の志を書いた手紙を出し、妻と小さな長男をつれて、千葉の吉持先生宅をお訪ねして、その志をお話ししました。先生は、「福音の届いていない僻地への伝道は誰かがやらなければならないと思っています。自分も年をとったら、そのような地に立つつもりです。水草先生が、その召しを受けたと確信があるならば、立てばよい。」とおっしゃり、磨き上げたひょうたんに筆でさらさらとイザヤ書のみことばを書いてくださいました。

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 その翌年春、私たちは練馬を離れて信州南佐久郡で開拓伝道を始めました。主は生きておられて、その地にも神の選びの民を用意していて下さったことは、数日前に書いたとおりです。九年目、小海町見晴台の上に会堂が与えられ、全体で22年間お仕えすることができたのは、神の恵みというほかありません。私は先生に「通信小海」を22年間送り続け、先生は、折々、あの達筆な書体、ときには絵も入れてはがきをくださって、励ましてくださいました。
 吉持先生は大きな器で、偉大な牧会者であって、私などまったく足元にも及ばないことは言うまでもないことですが、振り返れば、人生の節目節目、この頼りない私と妻はどれほど吉持先生に祈られ、励まされてきたことだろうかと、今にして思います。吉持先生は、私にとって伝道者としての覚悟を、いつも問うてくださり、そして励ましてくださる、怖くありがたい先生でした。
 

前任地から記念文集が届く

 きょう、前任地、長野県にある小海キリスト教会から、25周年記念誌が届きました。たくさんの写真が掲載されていて、開拓当初から私たちが去った3年前のころ、私たちが小海を去った後の洗礼風景、子どもたち、兄弟姉妹の楽し気なようす、そして昨年11月末に苫小牧を大挙して訪ねてくださったときの、苫小牧の教会の兄弟姉妹との交流の写真がありました。どの顔も懐かしく、また、子どもたちの写真は頼もしく感じます。

 掲載された年表、また、兄弟姉妹の文章のひとつひとつも、顔を思い浮かべながら読ませていただきました。25年前、人間的にはまったく徒手空拳で、無謀としか見えなかったので、心配して反対してくださった先輩もいましたが、「今、立て」とおっしゃる主にしたがって小海町に開拓伝道に立ったことはみこころにかなっていたのだと思うと、感謝なことです。主はたしかに生きておられました。

 同時に、今回この文集で、今も小海の地で福音の種がまかれ続けて、実を結んでいるさまを見せていただくと、後任者のご苦労を推察しながらも、たしかに私たちがあの小海を後にして、苫小牧に赴いたこともまた、神のみこころだったのだと確信させられます。開拓した牧会者から、後任者への引継ぎはなかなかむずかしいものであることを立場上、あれこれ見聞きしている者として、このように喜びをもって言えることは、ほんとうにありがたいことです。

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 下記は、求められて文集に寄稿した文章です。

種をまき続けるなら

                苫小牧福音教会 牧師 水草修治、妻こず江

 

 小海町馬流元町の借家で集会を始めて、1年数か月たったころから井出二枝さんと一緒に礼拝に集われるようになった中島悦子さんが「若い頃、私は『この小海町に教会ができますように』と祈っていたんです。」とおっしゃったことを憶えています。その祈りが、小海キリスト教会の始まりなのでしょう。

 私は大学1年生の終わりに洗礼を受け、イエス様の十字架の愛に感動して献身を志しました。その1年2か月後に、主はマタイ福音書28章の宣教命令をもって「あらゆる国の人々を弟子としなさい」との召しをくださいました。大学卒業後、東京基督神学校に進み、1年生の2学期から友人たちと「日本福音土着化祈祷会 葦原」を作って、毎週月曜日の夕食後、日本の農村部の諸教会から寄せられた祈りの課題を祈るようになりました。戦後、都市に人口が集中し、農村部が忘れ去られているけれども、そうした地域には教会に行く機会も福音を聞く機会すらない人々が取り残されていることは、主のみこころにかなうことではないと神学生たちは考えたのでした。

 神学校卒業後の第一の任地は練馬区の住宅街で、宣教師とともに4年間、その後は私ども夫婦で5年間、大泉聖書教会にお仕えしましたが、その間も、祈祷会「葦原」は研究会「葦原」と改めて活動を継続していました。そして練馬での7年目から、「神様、私を福音が十分届いていない地域、教会がない地域に遣わしてください」と祈るようになりました。

 9年目の夏、私は松原湖バイブルキャンプの高校生アウトキャンプのご奉仕に出かけました。高校生たちのためのみことばの働きが祝福されることと、私の将来に関する導きがあるようにと祈りました。キャンプではほとんどの高校生たちが信仰決心をし、一緒に奉仕したスタッフからは献身を表明する人が起こされました。このキャンプを終えたとき、「葦原」の仲間だったキャンプ主事の篠田先生と交わる機会がありました。「ビジョンは何なの?」と聞かれて、私は「福音が十分届いていない地域、教会がない地域に教会を始めること」と答えたところ、篠田先生はこともなげに「じゃあ、この小海町に来ればいい。南佐久郡には一つも教会がないから。」と言ったのでした。主の答えだと信じ、決断しました。

 東京にもどると、妻こず江にこの決断について告げましたら、「はい」と従う決断をしてくれました。ですが、当時、6歳の長男がいて、妻はお腹に苑美を宿している上、病を得て一緒に暮し始めた母もいましたから、不安がないわけではありません。そんな妻に神さまは詩篇23篇から「まことに私のいのちの日のかぎり、いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう。私はいつまでも主の家に住まいましょう。」というみことばをくださって、平安を賜りました。

 南佐久郡、小海町に赴任してからの22年間。今振り返れば、ほんとうに夢のようです。知り合うとすぐにその方の家を訪問したり、田植えをしたり、家庭集会を開かせてもらったり、公民館で賛美の会をしたり、結婚準備会で多くの人に個人伝道をしたり、的を射た方法だったかどうかはわかりませんが、手あたり次第なんでもしました。ですが、ずっと続いたのは「通信小海」でした。「主の羊は主の声を知っている」(ヨハネ10:3参照)、「この町にはわたしの民がたくさんいる」(使徒18:10)と信じて、南佐久郡七千軒の家々に、キリストの福音を充満させたのです。神さまは一人二人と主イエスを信じる兄弟姉妹たちを起こしてくださいました。

 これらのことは、一人の姉妹が祈られた「この小海町に教会ができますように」という祈りに対する、神さまのお答えなのでしょう。主にある兄弟姉妹。これからも、福音の種をまき続け、収穫し続けてください。

 

「涙とともに種を蒔く者は

 喜び叫びながら刈り取る。

 種入れを抱え泣きながら出て行く者は

 束を抱え喜び叫びながら帰って来る。」詩篇126:5,6

 

 

キンドル版新改訳2017

 新改訳2017をキンドル版で通読しています。パソコンで読みながら簡単にコメントをつけて行けるので、自分なりのコメンタリーが出来ていくようで楽しい。また、パソコンなので、字が大きいのでうんと楽です。

 ただし、聖句をさがすにあたっては、「何書のあのへんの右上」とかいうあいまいなことでは聖句に行き当たらないので、何書の何章何節と正確に記憶する必要があります。

 2592円でパソコンやタブレットスマホなど5つの端末で使えますから、一つ当たり500円なので紙の本にくらべるとうんと安価ということになります。私はスマホを使っていないのですが。

 

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聖書の神言性と人言性と聖書解釈

聖書という書物の解釈の根本的原理について考えてきたことをメモします。

 書物というものは、どんな書物であれ、その書物にふさわしい読み方で読むときに、適切な解釈ができるものです。大学受験のための現代文参考書を見ても、文章のジャンルということでいえば、説明文の読み取り方、小説の読み取り方、詩の読み取り方、随筆の読み取り方にはそれぞれふさわしい方法があると教えられています。聖書の解釈も、歴史書福音書、書簡、詩歌、黙示文学などジャンルに相応しい読み方があります。字義的な解釈というのは、ジャンルを踏まえての字義的解釈でなければ、愚かしい誤読になってしまいます。

 ジャンルだけのことでなく、その書物のもっている基本的性質ということについてもそうです。聖書は、聖霊が、それぞれの巻の記者を導いて記させたものですから、神のことばとしての性質(神言性)と人のことばとしての性質(人言性)を兼ね備えています。人言性ゆえに、それぞれの記者の個性・ジャンル・記者の置かれた書かれた状況、文化的・言語的背景が、それぞれの巻には反映しています。しかし、神言性ゆえに、その巻は神のことばとして読まれなければなりません。具体的には、旧新約66巻全体を啓示された神がおられるのですから、66巻全体の文脈の中で解釈されなければなりません。

 こういう観点から考えると、17世紀の正統主義時代の聖書の読み方は神言性に偏っていたという風に見えます。つまり、各巻の個性をほとんど無視して、聖句を神学体系を構築するためのプルーフテキストのように用いてしまう傾向が強いということです。プルーフテキストもその置かれた文脈をわきまえていればよいのですが、時として文脈から切り取られたものである場合もあります。四福音書の調和という発想は良くも悪くも神言性を前提とした聖書の読み方です。
 他方、18世紀以降のいわゆる近代聖書学の聖書解釈は人言性に偏っていると思います。つまり、聖書の各巻を書かれた当時の文化の色眼鏡をかけて読み、文化現象に還元したいという傾向が強いということです。ブルトマンのような新約学者たちはギリシャ文化的背景の色眼鏡をかけて新約聖書を解釈しようとしましたが、ここ40年ほどサンダース以降のNPPの流行は第二神殿期のユダヤ教的背景の色眼鏡をかけて新約聖書を解釈しています。まるでパウロユダヤ教の教師のままで、キリストによって新生したことを忘れてしまったような解釈をしています。

 聖書の神言性と人言性を二つながらわきまえた16世紀の宗教改革者の聖書解釈、古代教父とくにエイレナイオスたちの聖書解釈に、今、もっと学ぶべきであると私は考えています。前提がまちがっていたら、どんなに詳しく論じたとしても、正しい解釈ができるはずはないからです。

 

ペンテコステの朝 聖書翻訳

ペンテコステの朝、使徒たちが突然外国語で福音を語り始めたのを聞いて・・・)
人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。云々。。。

 

上は新改訳2017の2章12節から17節である。むしろ、以下のように翻訳してほしかった。

 

使徒の働き2章

人々はみな驚き当惑して、『いったい、これはどうしたことか』と言い合った。だが、『彼らは新しいぶどう酒に酔えるのだ』と言って、嘲る者たちもいた。
 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。『ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔えるのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです。・・・」