苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

あなたも主の証人

使徒1:3−11、エレミヤ31:31−34
2009年8月16日 小海主日礼拝

1.父の約束――旧約から新約へ

  「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです。』」使徒1:3−5

 復活した主イエスは、使徒たちに罪の赦しの福音を託し、「すぐに宣教の働きをスタートせよ」とはお命じにはならず、「父の約束を待ちなさい」と命じました。「父の約束」というのは、旧約聖書預言者エレミヤやエゼキエルやヨエルを通して、父なる神がメシヤが来られる新しい契約の時代に、聖霊の注ぎを約束してくださったことを意味します。

 「見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」」(エレミヤ31:31-34)

 注目すべき表現がいくつかあります。一つは「新しい契約」です。新しいという以上ふるいものと対比されているわけで、その古い契約とは32節にあるようにエジプトからイスラエルの先祖が連れ出されたときに結ばれた契約です。シナイ山で結ばれた契約なのでシナイ契約と読んだり、律法が詳しくともなったので律法の契約と呼ばれたりすることもあります。新しい契約というのは、あのシナイ契約に匹敵する契約であり、それを越える契約が主イエスにあって結ばれた契約なのです。主イエスが聖餐をお定めになるときに、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」とおっしゃった、あの契約にほかなりません。
 古い契約と新しい契約の共通点とはなんでしょうか?
それはなんの功もない者が神の恵みのゆえに与えれられた神の御子イエスの贖いによって、神の前に罪が赦され、神の民とされたということです。旧約時代の信徒たちは、来るべきキリストを待ち望みながら、罪をゆるされました。新しい契約における私たちキリスト者は、すでに来てくださって十字架にかかってよみがえられたキリストの贖いによって神の御前で罪を赦されました。古い契約も新しい契約も、「恵みによって神の民とされたこと」は同じです。イスラエルの民はエジプトで異邦人と同じような罪深い生活をしていたのに、そこから恵みによって救い出されて神の民となったのです。私たちも同じです。
では、古い契約と新しい契約のちがいとはなんでしょう?
ひとつは、古い契約が石の板に刻まれた律法を特徴としているとすれば、新しい契約には、33節にあるように「わたしはわたしの律法を彼ら中に置き、彼らの心にこれを書き記す」と言われている点です。外にある石の板や巻物ではなくて、彼らの中、彼らの心にその律法は書き記されるのだというのです。
 イスラエルは律法を与えられていましたが、それを守ることができませんでした。そこで神様は、心に律法を書くことにされたのです。いったい、人の心に律法を書き記すことなど誰が、どのようにできるでしょうか。その心に律法を書き記す働きをしてくださるのが、ほかでもない聖霊です。聖霊によって新しく生まれると、人は根本的な価値観が変わります。律法によっても道徳によっても、人を神の国にはいることはできません。ただ聖霊が人を新しく造りかえるのです。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」とイエスがおっしゃった通りです。これが聖霊バプテスマという表現でいわれている意味です。
新しい契約のもう一つの特徴は、「──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」とあるように、神様の前に罪ゆるされた確信を持つことができるという点です。旧約の聖徒たちは、まじめに律法にしたがい、いけにえの儀式をしても、決して自分の罪が神の前において赦されたのだという確信と平安を持つことができませんしたが(ヘブル10:1,2)、新しい契約の時代に生きる私たちは罪赦された確信と平安を持つことができます。尊い神の御子が罪のいけにえとなってくださったからです。
人は、生まれながらアダムの原罪を引き継いでいて、自己中心で、神様に反抗し、隣人を自己のために利用しようとのみする傾向があります。けれども、御子の十字架の贖いゆえに罪赦された確信をいただき、かつ、聖霊によって心の板に神の愛の戒めが刻まれるとき、人は神を愛すること、隣人を愛することを求めるように変えられるのです。イエス様に似た者となるのです。
 
2.宣教の原動力とビジョン

(1)宣教の原動力
 弟子たちはイエス様が復活なさったので、うれしくて、彼らのイスラエル再興の時期を訪ねます。とんちんかんな質問です(6,7節)。主イエスイスラエル復興の時期については横に置いておいて、大宣教命令をくだされます。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
 聖霊は、人の心に神を愛し隣人を愛せよという愛の戒めを刻まれました。神への愛と隣人愛の実践の極致は、人を永遠の滅びから救って永遠のいのちに導くことです。そこで、十字架の福音の宣教のために、証人となるための力をも与えてくださいます。旧約時代においては、祭司や預言者にのみ聖霊が注がれたのですが、新約の時代にはみことばを語るための聖霊はすべての信徒に注がれることになりました。
 宣教の原動力が聖霊です。人間のがんばりや人間の勇気や人間の知恵や方策ではありません。新約の時代、聖霊はすべての信徒に注がれることになりました。旧約時代には、聖霊は祭司や王といった特定の職務につく人にのみくだりましたが、新約時代には聖霊はすべての信徒に惜しげもなく注がれたのです。エレミヤ書の先ほど読んだ末尾が意味したところです。
「そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」」(エレミヤ31:34)
 ですから、聖霊が注がれてから宣教の担い手はすべての信徒となり、だからこそ、福音は世界に広がることができたのです。旧約時代には律法を語る人は、ごく少数の祭司や律法学者といった特別の人のみでしたが、いまやすべての信徒がキリストの復活の証人となる時代となったのです。
 私たちは福音を地中海世界に伝えたのは使徒たちだというイメージを持っています。それは部分的には正しいのですが、それ以上に、一般の信徒が伝道の担い手であったのです。たとえばローマに教会を設立したのは誰でしょうか?パウロでしょうか。いいえ。パウロが書いたローマ人への手紙によれば、彼が手紙を書いた相手はローマにある教会のクリスチャンたちです。パウロが行く以前に、すでにそこに教会は生まれていました。プリスカとアキラをはじめとする、神様を愛する聖徒たちによってローマ教会は始まったのです。
 でも、伝道はむずかしいといわれるでしょうか。たしかに全ての信徒が伝道者ではないでしょう。しかし、主は「あなたがたはわたしの証人です。」とおっしゃいました。証人というのは、自分が見たこと、聞いたこと、体験したことを語る人のことです。私はクリスチャンになって、これこれこういう経験をしました。イエス様は生きておられて助けてくださるのです。」すべての信徒が伝道者ではないでしょうが、すべての信徒はキリストの証人です。

(2)宣教のビジョン
エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまで」という、宣教のビジョンを主は示されました。
  使徒の働きという書物は、このあと、エルサレムをまず舞台とし、やがて当局による弾圧のなかで福音はユダヤ地方とサマリヤ地方に拡大し、そして、世界(西はローマ、スペイン、東はインド、中国)へと広がっていくという風に展開していきます。そして、私たちはここに教会が持つべき三つの宣教意識の広がりを見るのです。
  この宣教のビジョンを、私たち小海キリスト教会に適用するならばどうなるでしょう。「エルサレム」は私たちにとって南佐久郡です。現状としては小海キリスト教会はこの広い南佐久郡で唯一の教会です。この地域のすべての人に福音を届ける任務があります。そのために励んでいます。次に「ユダヤとサマリヤ」というのは、国内宣教にあたるでしょう。そして、「地の果てまで」というのは国外宣教です。私たちは、時折国外宣教師を迎えたり、牧師が国外の支援にでかけたりします。また信州宣教区では塩尻でこの春から開拓伝道を始めました。そして、この南佐久郡で伝道しています。小さな教会であっても、この三つの視野をもって宣教をすべきであることをイエス様が教えてくださっているからです。

3.再臨と宣教

 このように大宣教命令をお与えになって、イエス様は天に帰って行かれました。

「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」(使徒1:9−11)

 福音宣教はイエス様が再臨されるまで続きます。福音が世界中すべての国民にあかしされることは、主が再び戻ってこられることの条件の一つなのです。主はおっしゃいました。
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24:14)
 日本同盟基督教団創始者であるフレデリック・フランソンは自分の目がまだ黒い(あおい)間に、主イエスが再臨されると固く信じて伝道をしたことで有名です。彼の生きている間に、主は再臨なさいませんでした。ではフランソンは間違えたのでしょうか。いいえちがいます。主の再臨が自分が生きている間にやってくる、あした主はおいでになるかもしれない。そのことを意識して生きることが大事なのです。

むすび
 父の約束にしたがって注がれた聖霊は、兄弟姉妹たちみなに注がれました。それによって、主にある兄弟姉妹は救いの確信を得、御霊の実を結ぶものとなりました。
 さらに、注がれた聖霊は、「あなたがたは主の証人です。」とあかしをする宣教の霊なのです。小なりとはいえ、私たちも聖霊をいただいたキリストの証人です。主はあなたをも証人として、今、生活している地域に派遣しておられます。あなたの周囲にも親切な立派な人はほかにいるでしょう。私はこの地に十六年前越してきてから、「偉い人がたくさんいるなあ」というのが口癖になりました。地域のために、誰の賞賛を求めるわけでもなく進んで奉仕する方たちが、田舎にはたくさんいらっしゃいます。けれども、永遠のいのちの福音を持っているのはあなただけです。福音をあかしするのは、私たちしかいないのです。あなたが、キリストにある希望の証人なのです。