苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

はらわた痛むほどに

マルコ1:40−45

2016年5月29日 苫小牧福音教会朝礼拝

1 ツァラアトに冒されるとは

 主イエスがカペナウムから始まってガリラヤに伝道を始められたとき、ひとりのツァラアトに冒された人が、主のもとに近づいてきて言いました。

1:40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」

 新改訳聖書第三版でツァラアトと訳されていることばは、第二版までは「らい病」と訳されていましたが、第三版では、いろいろと議論をした結果、旧約聖書のヘブル語のままツァラアトと記すことに変更されました。それは、聖書の記述を研究してきた結果、ツァラアトがらい病を意味していなかったことがわかってきたからです。新共同訳聖書では、「重度の皮膚病」と訳されていますから、私個人としてはそれにならうのがよかったのではないかと思っていますが、新改訳はツァラアトとしました。レビ記に「壁にツァラアトが現われる」という記述がありますから、それを皮膚病というわけには行くまいということで、重度の皮膚病という訳語が避けられたそうです。
また、壁がらい病になるわけがありませんし、ツァラアトに冒されて手が雪のように真っ白になったという記述がありますが、これもライ病の症状とは異なっていますから、ツァラアトがライ病でないことは確かなことです。そんなわけで、新改訳はツァラアトとと原文ヘブル語のまま記述することにしました。
 それはそれとして、当時、ユダヤ社会ではツァラアトにおかされることには、病気によって肉体的苦しみだけでなく、社会的にも宗教的にも苦しみがともなっていました。というのは、レビ記13章に詳しく記されていますが、このツァラアトに冒された人は宗教的にけがれたものと見なされ、礼拝に出席するため会堂に出入りすることからも、社会生活からも隔離されなければならないと定められていたからです。ツァラアトに冒されると、家族からも引き離されてしまったのです。人々は病気の感染を恐れるとともに、宗教的穢れに染まることを恐れたのでした。
 彼は社会から隔離され、家族からさえも隔離されて生活しなければなりませんでした。そして、神からも見放された者たちとして差別されたのです。人はもともと、神への愛と隣人愛の中で生きるように造られたのに、神からも人からも遠ざけられてしまい、ひとりぼっちというのはどれほどのことでしょうか。私たちクリスチャンは、かりに友人に見放され、家族にも見放されてしまうことがあっても、神さまだけはいっしょにいてくださるという望みがあるでしょう。しかし、彼は、その望みさえ失せていました。どれほど寂しかったでしょう。

 この人は、宗教的に汚れたものであることを自覚していましたから、言いました。「お心一つで私はきよくしていただけます。」「癒していただけます」というのでなく、「きよくしていただけます」と彼は言っています。自分は穢れている。穢れていて、人に近づくことも、神に近づくことも相応しくないような存在であると自覚しているのです。
 けれども、彼はイエスさまは、他の偉い律法学者の先生たちとは違って、自分が近づいても避けて逃げようとはなさらないし、石を投げようともなさならない。イエス様が意志してくださるならば、この私もきよくしていただけるに違いないという信仰をもって、イエス様に近づき、そして、声をかけたのでした。
 しかも、「おこころひとつで」と彼は言いました。何が何でも、是が非でもというのではなく、「主よあなたが望んでくださるならば」という主イエスの意志を信頼して委ねるという信仰をもってイエス様に申し上げたのでした。彼の肉体はツァラアトに冒されていましたが、その魂には神の前にへりくだった信仰を持っていたことがわかります。


2 はらわた痛むほどに

 ツァラアトにかかった人が近づいてきたら、当時の社会ではみなが逃げてしまいました。特に、律法学者・パリサイ人ギたちはツァラアトにかかった人を神にのろわれた者としてということ忌み嫌いました。ツァラアトの人に触れたら、自分も宗教的に穢れているとみなされてしまうからです。しかし、主イエスはひざまずく彼から逃げようとなさいませんでした。

(1)主イエスは「深く憐れんだ」とあります。

  1:41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
1:42 すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

 「深く憐れんだσπλαγχνισθεὶς」ということばは、「スプランクニゾマイ」ということばで、「はらわた震わされて」というスプランクとは「はらわた」という意味のことばです。スプランクニゾマイというのは、直訳すれば「はらわたする」という意味のことばです。私たちも、あまりにも深い悲しみを経験すると食事がのどを通らなくなったりします。スプランクニゾマイは、日本風、中国風に言えば「断腸の思い」です。中国の故事に昔、ある川を兵士が小舟でくだっておりましたら、岸に小猿がおりましたので、兵士たちはその小猿をつかまえて舟に載せました。ところが、それを見て血相を変えて母猿が岸辺を走って追いかけてきたのです。兵士たちは、岸をぎゃーぎゃー叫びながら追いかけてくる母猿をからかっていましたが、百里も追いかけてくるので哀れになって小舟を岸につけると、母猿は舟に飛び乗り小猿に駆け寄りますがばたりと絶命してしまいました。この先が実証主義の中国らしいのですが、「いったいどうしたのか?」と兵士たちは母猿を解剖すると、母猿のはらわたがずたずたに千切れていたというのです。まさに断腸です。母猿がわが子を思うその悲しみ思いがあまりにも強かったので、その腸がずたずたになってしまったことがわかりました。深い嘆き悲しみを断腸の思いというわけです。
 イエス様は、この人を見て、彼がツァラアトという恐ろしい病を発病して以来、その病にさいなまれ、世間から差別され、愛する家族からさえも引き離されて、礼拝の場からも遠ざけられて、ひとりぼっちで生きてきた日々を思われて、はらわたの痛めるように深い深いあわれみをかけられたのでした。

(2)手を伸ばし、彼をさわって・・・暖かさ
 主イエスは「手を伸ばし、彼をさわった」とあります。主イエスは「光、あれ」とおっしゃって万物を創造した神のおことばご自身です。主のことばには権威があって、無から万物を造りだすことまでもできるお方です。もし、「きよくなれ」というご命令をお与えになるならば、それだけで、このツァラアトにかかった人はきよくなり、その病はいやされたはずです。こうして触る必要はなかったのです。しかし、主イエスは手を伸ばして、彼を触られたのです。
 主イエスの手にからだをふれられて、彼はびくっとしたでしょう。「けがれています。さわってはなりません。」と叫びそうになったでしょう。人の手が彼に触れたのは一体何年、何十年ぶりのことでしょう。彼の皮膚病がツァラアトであると祭司によって判明し、その宣告を受けてから、彼は母の手も妻の手も子どもの手に触れてもらうことすらできなくなっていたのです。人の手の温かみということを、ずっと忘れてしまっていた、彼のからだでした。そういう彼の悲しみに主イエスはご存知でしたから、あえて、その手を伸ばして彼のからだに触れてくださったのです。主の手がふれて暖かさが伝わってきたとき、彼のからだだけでなく、長年の寂しさに冷え切っていた魂までも暖められました。


3 祭司に見せなさい・・・社会的復帰・礼拝の生活への復帰

 男のからだがすっかりきよくなり、あかるい表情になったのをごらんになった主イエスは大事なことを二つおっしゃいました。
 ひとつは、

1:43 そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。
1:44 そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」

「祭司に見せよ。そして人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのそなえ物をしなさい」これは、彼の礼拝の生活・社会生活への復帰のための手続きでした。当時のユダヤ社会では、ツァラアトの診断をして宣言をする仕事は祭司が担当していましたから、彼がツァラアトから解放されたことについて宣言をすること、そのきよめられたことを確認する儀式を行うことは祭司にしてもらうことでした。ですから、「祭司に見せなさい」と主イエスは命じたのです。
主イエスのこの男性への癒しは、病気のいやし、心のいやしだけでなく、社会生活・礼拝の生活への復帰をともなうものであったのだということがよくわかります。実にこまやかな配慮に満ちた主イエスです。

私たち人間は、もともと神と隣人との交わりのうちに生きるものとして造られました。「人間」は人の間と書くように、孤立してでなく、神とともに生き、隣人の愛のうちに生きるものとして生きるものです。しかし、神に背いたときから、人は隣人との関係にうまく行かなくなり、自分自身ともうまく行かなくなりました。
この人に見られる主イエスの救いの業は、人間を肉体だけでなく、その本人の心の問題だけでなく、その社会的な面で、そして、なにより礼拝者としての生活の面でも、十全な意味で人間として生かしてくださるものなのだということがよくわかります。


4 主のみこころを悟らなかった人 

 最後に、主イエスは不思議な戒めを彼にお与えになったことに注目しておきたいと思います。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」それは、彼に、ツァラアトからきよめてくださったのはイエス様であるということを誰にも言ってはならないと釘を刺されたということです。普通、たとえば病院だとか整骨院だとかだと逆でしょう。口コミでどんどん良い評判がひろがることを望むのではないでしょうか。けれども、主イエスは誰にも言うなとお命じになったのです。
 なぜでしょう?人は病気が治ったと聞けば、病気が治ることのみを求めてイエスのもとにゾロゾロと集まってくるけれども、そういう動機でイエスのもとに来る人は、それよりはるかに重要な自分の神様との関係には無関心になっているからです。肉体の病が癒されることよりもはるかに大事なことは、神様との関係の回復です。
神様なんかどうでもいいから、病気を治してくれ。病気を治してくれたら、神様がいると信じてやってもいい、という傲慢不遜な人々がいるものです。イエス様は、そういう人々がこの世には山ほどいて、そういう人々によって、福音宣教がかえって妨げられることをご存知だったのです。
 肉体の病は辛いものです。ただのぎっくり腰だって、風引きだってたいへんです。癒されるものなら癒されたいものですし、事実、主はいやしてくださいます。けれども、もっと大事なことがあります。それは、キリストの福音によって、神との関係が修復されることです。なぜなら、神との関係が修復されることがないならば、かりに一時的にからだは元気になっても、永遠のほろびに陥ってしまうからです。たとえ全世界を手に入れても、自分の永遠のいのちを損じたらなんの徳があるでしょう。
 しかし、あの男性は、イエス様のおっしゃることをちゃんと聞くことができませんでした。嬉しすぎて、この出来事を町中にいい広め始めたのです。その結果、主イエスは表立って町に入ることが出来ず福音をつたえることができませんでした。残念なことです。

1:45 ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。しかし、人々は、あらゆる所からイエスのもとにやって来た。

 男は良かれと思ったから一生懸命に宣伝して回ったのです。しかし、私たちに大事なことは善かれと思うことを一生懸命にすることではなくて、主が善いとなさることを行うことなのです。神がよしとなさらなくても、私がよしとしているのだから、それが言いのだというのは、たいへんわがままな態度です。自分がよかれと思うことでなく、神様が善しとされることをみことばに学び、実践する者となりたいと思います。


結び
 本日のまとめです。主はあわれみふかいお方なのだということを私たちは深く学びました。主は、誰も知らないあなたの痛みをも、ご存知でいらっしゃるのです。
 そうして、人が触れることのない、ふれることを望まないような、あなたの醜くけがれたところまでも、手を触れてあなたを清くし、あなたの暗く冷え切った心に愛の暖かさを注いでくださいます。
 主よ。私を清くしてください。冷え切った私のたましいに、あなたの暖かい愛を注いでくださいと祈りましょう。