苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ΑでありΩであるキリスト

 J.G.メイチェンが言ったように、キリスト教信仰とは、キリストが神を信じたように神を信じる信仰ではなく、キリストが神であると信じる信仰である。キリストが神であるということは、キリストが永遠から永遠にいますお方、すなわち、「キリストはΑ(アルファ)でありΩ(オメガ)である」ということを意味している。だから、キリストの神性を告白する新約の聖徒たちが旧約聖書のなかにキリストを探したのは当然のことであった。もし、あの二千年前のクリスマスがキリストの最初の出現であるとすれば、それはあまりにも唐突で、キリストは「ΑでありΩである」お方ではなくて、「Λ(ラムダ)でありΩである」お方にすぎないということになってしまう。
 これは旧約聖書における来るべきメシヤの出来事の予型的理解によって解決する問題ではない。モリヤの山でのイサク奉献は、ゴルゴタ山の出来事の予型であったとか、レビ記のさまざまないけにえはご自分の十字架の死の予型であったとしても、イエスが永遠のお方であるという証拠にはならない。そうでなく、受肉以前のロゴスすなわち「先在のキリスト」が出現している旧約聖書の箇所を見出す必要がある。
 初代教会、古代教会の聖徒たちが先在のキリストを見出した旧約聖書の最初の章句のひとつは、創世記1:26である。ここで神は「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」といわれた。神はなぜご自分を指して「われわれ」と言われたのであろうか。
 創世記をその成立当時の文化の所産にすぎないと考える人々は、書物の成立した文化・言語の文脈のなかから得られた解釈がもっとも妥当な解釈であると考えて、この「われわれ」は尊厳を表す複数であるとか、あるいは、神と御使が「われわれ」と言ったのだと解釈したり、多神教の神話の一節がここに紛れ込んでいると解釈したりもしよう。しかし、新約聖書はどのように解釈し、古代教父たちはどのように解釈しているだろうか。

1.新約聖書の答え

 創造において神がご自身を指して「われわれ」と言われたことについて、新約聖書は下記の章句で答えている。

ヨハネ福音書「1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」

ヨハネ福音書「 17:5父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」

ヨハネ福音書「17:24父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。」

ピリピ「2:6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 2:7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」

コロサイ「1:15御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 1:16万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 」

ヘブル「1:2この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。 1:3御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」


 これらの新約聖書の章句は、御子が受肉以前、さらに万物の創造以前に父なる神とともに存在されたことを教えている。このことから考えれば、創世記1:26における「われわれ」は父なる神と御子を指していると理解するのが妥当である。


2.古代教父たちの理解

 下記の古代教父たちも、筆者と同様に創世記1章26節の「われわれ」は御父と御子を意味していると理解している。引用はいずれも、平凡社『中世思想原典集成 初期ギリシャ教父』より。

*ユスティノス(100?〜162?)
 ユダヤ人トリュフォンとの対話62:1−4
 創世記1:26−28および創世記3:22から、「この箇所によってわれわれは、神が数として区別された、理性をもつ何者かに向かって語っているということを確実に知る。」として、62:4「むしろ、実際父から出、すべての被造物より先に生まれた方が彼とともにいたのであり、その彼に父が語りかけたのだ。それは御言葉がソロモンによって明らかにしたとおりである。つまり、まさに彼こそすべての被造物に先立つ根源であり、父から子として生まれた方であり、ソロモンが知恵と呼ぶ方である。」

*エイレナイオス(130−202)
使徒たちの使信の説明」55
創世記1:26を説明して、「父は不思議な助言者としての子に語りかけているのである。」

*アンティオケイアのテオフィロス(180年頃)
「アウトリュコスに送る」第二巻22
「しかし神はそれによって万物を造ったという神の言葉は、神の力と知恵であり(1コリント1:24)、宇宙万物の父である主の姿をとるのであって、この言葉が神の姿で園に現れ、アダムと話したのである。・・・この声は神の言葉、すなわち神の子以外の他の何であろうか。・・・・神が造ろうと計画していた限りのものを造ろうと望まれたとき、神は発話された(外なる)ものとしてこの言葉を生み、すべてのものが造られる前に生まれた方とした(コロサイ1:15)。しかし神からこの言葉がなくなることはなく、神は言葉を生み、常に言葉と語り合っているのである。・・・・「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。」」

*オリゲネス(182〜251)
創世記講話 第13講話4「父が子に対して、『われわれは人々をわれわれの像と似姿にかたどって造ろう』といったのは、この像のことである。」

3.聖書釈義の目指すもの

 聖書釈義は、通常、聖書各書の記者が最初の読者と想定している人々に対して伝えようとしたことを見出すことを目指しているとされる。であるとすれば、創世記1章26節を書いた記者が、先在のキリストを知っていたはずはなく、三位一体を知っていたはずもないし、したがってまた、最初の読者に先在のキリストを伝えようとしたはずもないから、この「われわれ」に先在のキリストを見出そうとすことは、ナンセンスなことであるということになってしまう。
 しかし、新約聖書は上述のようにキリストの先在を明瞭に示唆し、それにしたがって古代教父たちは「われわれ」にそれを見出している。新約聖書をナンセンスな書物であると考える人々がなんと言おうとかまわないのだが、新約聖書は神の霊感による啓示の書であると信じ告白している解釈者は、新約聖書が示している旧約聖書における先在のキリストを受け入れなければ自己矛盾しているというべきである。「旧新約聖書66巻はすべて神の霊感によって記された、誤りのない神のことばである」と信じる者としては、新約聖書による旧約の章句の意味開示を通常の合理的な釈義手続きによる解釈に優先させることが、筋が通っている。
 聖書を神の啓示であると信じる私たちの釈義の目的は、歴史的文法的な聖書解釈によって、まずは、聖書各書の記者が最初の読者と想定している人々に対して伝えようとしたことを見出すことを目指すのであるが、さらに、著者である聖霊の意図されるところを理解することが究極の目的であることを確認したい。


結び
 
 創世記1章26節の「われわれ」は旧約におけるキリスト章句の一つである。上記のテオフィロスは、エデンの園において、アダムたちに語りかけた「神の言葉」はキリストであったとも言っている。聖三位一体における御子の啓示者としての役割をかんがみれば、妥当な理解でると思われる。
 ほかに、ヨハネ福音書が御子が旧約時代に登場したと明言する箇所のひとつは、ヨハネ12:40,41である。この箇所によれば、イザヤが神殿で見た「万軍の主」は御子である(イザヤ6:6−10)。
 また、同じくヨハネ福音書8章を見よう。イエスは、あたかも昨日アブラハムに会ってこられたかのような口ぶりでおっしゃった。「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。それで、ユダヤ人たちはいきりたってイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。するとイエスはおっしゃった。「イエスは彼らに言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである』」(ヨハネ8:56〜58参照)。
 マムレの樫の木の下にいるアブラムに現れた三人のうちの一人、ヤコブとすもうを取ったあのお方も御子だったのだろうか(創世記18:1)。アブラムにパンと葡萄酒をふるまい、アブラムから十分の一を受けた大祭司メルキゼデクはどうなのだろう(創世記14:18−20)。特に創世記には、先在のキリストらしき御使いがあちらこちらに出現しており、この御使いにであった聖徒は、「私は神を見た」と証言している(創世記32:30)。