苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

吉村昭『史実を歩く』

 昨秋、しばらくの間、吉村昭にはまっていた。発端は、同氏が自らの小説作法について記した『史実を歩く』だった。『生麦事件』に、島津久光の行列が生麦村にさしかかったときの場面を描くくだりに次のようなところがある。
「馬上の四人が帽子をかぶっているのがかすかに見え、外国人のようであった。先払いの後につづく駕籠のかたわらを歩く徒士(かち)が、駕籠の中に声をかけ、先導役の海江田武次が身を乗り出し、前方に眼を向けた。馬も人も、陽炎にゆらいでいる。」
 この「陽炎にゆらいでいる」という一句を書くために、吉村さんは現場検証をし、その日の天候を記した史料にあたった。そして、文久二年八月二十一日、この時刻には、(今でいえば神奈川県鶴見区の)生麦では陽炎が立っていたにちがいないと推断して「馬も人も、陽炎にゆらいでいる」と書いたのである。この本だけでなく、吉村さんの作品のひとつひとつ、いや一行一行は、こういう裏づけ作業を経ている。また、虚栄のつきまとう文壇から距離を置いて生きたという吉村さんの生き方にも共感をおぼえた。
 午前六時前に家を出て神学校に出講した毎週木曜日、夕方、帰宅の新幹線に乗る前に、『きょうもご苦労さん。ごほうびだよ。』と自分に言って、上野駅の本屋で新潮文庫の吉村作品を一冊買って次々に読んで行った。『破獄』『羆嵐』『高熱隧道』・・・どれもこれも面白かった。ぼちぼち紹介してきたい。