苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

ローズンゲン2月9日   神と人

ヨブ記17章3節
どうか、私を保証する者を
あなたのそばに置いてください。
ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。(新改訳)


どうか、あなた自ら保証となられるように。
ほかにだれがわたしのために
保証となってくれる者があろうか。(口語訳)


願くは質を賜ふて汝みづから我の保證となりたまへ 誰か他にわが手をうつ者あらんや (文語訳)


あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が、わたしの味方をしてくれましょう。(新共同訳)

 新改訳の「あなたのそばに」という訳に特徴がある。他の訳は「あなた自ら」「汝自ら」というふうになっている。呼びかけられている「あなた(汝)」は神である。神ご自身が私の保証人となってくださいというのか、神のそばに私の保証人を置いてくださいというのかというちがいである。ヘブル本文immak(withにあたる)という前置詞の理解の違いだろうか。
 ヨブは潔白な者がなにゆえ苦難にあわねばならないのかという疑問につき当たって、「どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。 たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられまい。」(9:2,3)と嘆いた。
 やがて「神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」と申し入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」(9:32,33)という。神と人との間には無限の隔たりがある。だが、失望のなかにも「仲裁者」という光明をちらりと見た。
 さらに長い苦悩の末、16章19節にいたって、「今でも天には、わたしの保証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます。」という信仰を得て、17章3節でこれを繰り返している。
 そして、ついに19章25節にいたって、ヨブは預言する。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。」(19:25−27)
 新改訳のimmakの訳は、こうした無限の神と有限な人との仲保者がヨブに開示されていくプロセスを意識した訳なのかもしれない。
 神は神であられ、人は人にすぎないことを思い知らされるヨブ記であるが、そのヨブ記においてこそ、人となられた神、イエス・キリストのありがたさを最も切実に教えられる。