浪人時代、京都の予備校の夏期講習のために、2週間ばかり友人M君と鴨川のほとりの下宿屋で暮らしたことがあります。そこにR大学の学生も下宿していて、5段の本棚に岩波新書・中公新書・講談社新書がびっしり並んでいました。その大学生は、「新書は便利です。さまざまな知識が手に入るから。」と話されました。
そのあと部屋に戻ると、M君が、「水草、新書の古典の解説を読んで、わかった気になってはあかんねんで。若いときは古典そのものを読まなあかん。」と言いました。その言葉はずっと私の中に残りました。それで、私はなるべく解説書でなく、多くは翻訳ですが原典を読むように心がけました。
確かに解説書は便利で、一読すれば、重要な思想、文学、科学などの一応の常識的な情報は手に入るわけですが、実際に、その著者のものを―翻訳ですが―読んで見ると、特に思想的なものはむずかしくて何を言っているのかさっぱりわからないことが多いわけです。ヘーゲル、キルケゴールなんて笑えるほどわからない。あの解説書にわかりやすく書いてあったけれど、ほんとうなのかなあ?と思いました。・・・そういうことが大事なんでしょうね。
「若い時は」とM君は言いました。年を食ったら、時間もなく忙しいから、新書で済ませる他なくなるかもしれないし、一応の常識は必要だろう、でも学生時代、時間があり、脳が柔軟なときは、自分のなけなしの脳みそを絞って鍛えるために、あるいは、無知を自覚するために、原典を読むのだということです。
一見、昨日書いたのと反対のことに見えますが、そうでもないでしょう。昨日のは情報を得るための方法、今日のは思考力を鍛え知を得るための方法。