苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

総合芸術としての説教—小畑進先生への応答

 神学生時代、筆者は稀代の説教者小畑進牧師の「釈義から説教へ」のクラスと「説教演習」を受講した。その際、先生が受講者に「説教チャート」を配布してくださった。全体は神殿を正面から見たかたちの図になっている。正面入り口の上に看板、大屋根を支える左右の柱、そして、土台という図である。

 だが、小畑先生はこのチャートについてほとんど説明をなさらなかった。自分で説教に取り組みながら、このチャートの理解を深めていけという意図だったのではないかと私は解釈した。だから、私はこのチャートをプラスチックケースに入れて机上に置きいつでも眺められるようにしてきた。40年間、説教者として格闘してきたことから、小畑先生がくださった宿題に現時点の回答を書いてみたい。

 

1.当たり前のことは言うなー看板

 さて全体の構図は、神殿を正面から見たかたちであり、中央上部に掲げられた看板には「啓発的であること(当たりのことは言うな)」とある。その下に「真・善・美」とある。真理であれ、道徳であれ、美しさであれ、その聖書テクストの特色を捉えるのである。説教において「美」という観点に入っているところに特徴がある。

  

2.説教は総合芸術である―右の柱

 神殿を支える右の柱には「説教は総合芸術」と理念が書かれており、説教は霊性・信仰・学識・教養・品性・生活etc.の総合芸術なのだと説明がついている。説教を総合芸術であるとするのが、小畑進先生の一番の特色であろう。
 高い学識があっても敬虔な生活を欠く説教者には力がない。雄弁で人を惹きつけるが、品性下劣では主の役に立たない。祈りに熱心であるけれど、神学を欠く説教者は危うい。教養を欠くためにやせ細った説教もある。主の日の講壇のことばは立派だけれど、後の六日間の生活を信徒が垣間見て、きれいごととしか聞こえない説教もある。
 聖書の歴史的・文法的釈義は重要だが、それだけで説教ができるわけではない。説教は霊性・信仰・学識・教養・品性・生活などの総合芸術、全人格的なわざである。

 

3.交響曲的編成—左の柱

 左の柱には「交響曲的編成」と書かれていて、その下に「序破急」「起承転結」「主題提唱」「思想貫徹」とある。これは説教を構成する上での心得である。聖書テクストの特色、説教者の得手不得手、会衆によって、序破急という展開を採用するのか、起承転結を採用するのか、それとも他の構成を採用するのかを決める。

 「序破急」とは世阿弥の『風姿花伝』にあるように、「序」まずおもむろにスタートし、次に展開するのが「破」であり、さらにクライマックスに向けて「急」にテンポを上げて頂上に達し、パッと終わる。残る余韻。

 「起承転結」は、「起」は主題を提唱して、その主題を受けてスタンダードな話をしていくのが「承」であり、それで話が終わると思いきや、「だが果たしてそうでしょうか?」と改めて新しいことを提示し意表をつくのが「転」であり、そして、スタンダードと新しいことを総合するのが「結」となる。カギは意外な「転」にある。

 説教の構成については、「序論・本論・結論」というスタイルや、連続講解説教者の場合「ランニング・コメンタリー風の展開」が多いだろう。ランニング・コメンタリー風の展開の長所は、みことばの一言一句を大切に語ることで、信徒のみことばに対する信頼を醸成すること、また、説教者が自分の言いたいことを言わず、また、言いづらいことも神のことばとして語らざるを得ないように縛られることがあろう。だがランニングコメンタリー風の説教は、えてして説教でなく退屈な聖書の説明になってしてしまう。それを避けるには、当該テキストを区分して小見出しを付けて、当該テキスト自体の流れを構成として、説教の構成にメリハリをつけることである。

 どのような構成をもって話をするとしても、「主題提唱」「思想貫徹」は大事なことである。あれこれ話して、いったい今日のメッセージは何だったかわらかないようなことになるなということである。主題貫徹の見本は、ベートーベンの「運命」だろう。もし「今日の説教で言いたいことは何ですか?」と問われたら、一文で、「これこれこういうことです」といえなくてはならない。その主題は最初に書いたとおり「これがメッセージだ。これを伝えよ。」とおっしゃることを聴き取ったことである。
 もっともベートーベンの「運命」は主題貫徹しすぎていて、いささか単調に感じなくもない。テーマが一つ貫徹していて、しかも、多様な広がりがあること、多様な豊かさはあるがバラバラにならず一つのまとまりがあることが、より望ましい。ベートーベンでいえば「田園」。

 

4.特色・活写・同感

 神殿内に
「1.特色<そのテキストでなければ言えないことを語る> 
 2.活写<聖書記者・聖霊の意図と一体と成る> 
 3.同感<実存的に自分だったらと突き詰める>」
とある。


(1)特色

 特色とはそのテクストに特徴的な教理・教訓を見出すことである。そのテキストでなければ言えないことを語るようにしなければ、「**先生は、聖書のどこから話しても、結論はいつも同じ『伝道しましょう』だ。寝ててもわかる。」ということになりかねない。また、教理をしっかり把握しなければ、説教ではなく単なる感話やお話に終わってしまう。原典釈義だけやっていて、聖書を通して神が語られるメッセージを十分に語りえるわけではない。教理を正確に把握するためには、釈義神学・組織神学・歴史神学・実践神学が総動員される必要がある。

(2)活写

 福音書であれ歴史書であれ書簡であれ、釈義において見出された状況をよくわきまえて活写する。会衆はそれによって、テキストを体験することになる。それには表現力が必要である。福音書であるならば、主イエスと出会った人々のようす、弟子たちの反応、主イエスの眼差し、吹く風、空の色、日差しが見えてくるように活き活きと描写する。そういう描写力は物語文学や小説が参考になる。書簡であるならば、その手紙が書かれた事情をよく捉えて、書き手の置かれた状況、その手紙の宛先の町の歴史・気風なども把握して、書き手と受け手の心の通い合い、ぶつかり合いを表現することである。気位の高いローマの直轄都市ピリピ、アルテミス神殿のあるエペソ、放縦な町コリント・・・など。
 小畑先生のサムエル記から説教の文体は、平家物語のような軍記物の勇壮な文体を感じさせられた。コリント書講解の文体ははらわたも開いて見せるような文体であったし、詩篇の説教は詩的であった。

(3)同感

 神学的洞察があってこそ、聖書を正確に理解しメッセージを把捉できる。表現力はメッセージを伝えるために有用である。しかし表現力に頼みすぎると、単なる話術や芸に終わってしまう。聞いて面白いかもしれないが、落語を聞いたり演劇を見たりするようなことで終わってしまうだろう。映画館でさんざん泣いたが、外に出るとケロッとしているようなものである。そこに人生を変える力はない。
 神のことばが迫力をもって語られるためには、説教者自身が神のことばにいのちを賭けているという実存的事実が必須である。説教者自身がみことばに聴き、警告にはおののき、約束ならば感謝してしっかりと握りしめ、命令ならが従うという生き方をしていることが必須である。それを欠くなら、説教は単なる芝居である。

 神学校・神学部のチャペルにおける説教は、えてして教師の自説開陳になりがちで、変化球の説教が多かった。「ほう、そういう読み方もあるのか」と驚かせるようなものである。 しかし、あるとき朝岡茂牧師が神学校チャペルで話されたレプタ二つのやもめの説教は、直球であった。ごくスタンダードな釈義に基づきつつ、深い感動を呼び起こし、悔い改めと喜びを起こさせる説教だった。それは説教者自身が、神を喜び、神にいのちを賭けて生きていらっしゃるあかしであった。 すばらしい直球には、どんな気の利いた変化球もかなわない。

5.SOLI DEO GLORIA(神にのみ栄光を)

 そして、中央の土台にすべてを支える「神意」があり、SOLI DEO GLORIAとある。すべての聖書解釈と説教は、人間にではなく、ただ神に栄光を帰するものであらねばならない。説教は当面、会衆に聞かせるものではあるが、究極、神への捧げものである。説教は神にささげるにふさわしいものでなければならない。
  説教は、釈義・神学・文学・歴史・人格・祈り・信仰・生活、そのすべてが神の前で一つに結び合わされる総合芸術である。そしてその芸術は人を感動させるためではなく、ただ神に栄光を帰するためにある。だから説教の最後に掲げられるべき言葉は、やはり SOLI DEO GLORIA なのである。