苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

安息日は会堂で、平日は外で

 福音ということばは、人間のからだの器官のどこと関係があると聖書は教えているか。口でも舌でもなく、福音は足と関係あるものとして教えられている。

    遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちのは」と書いてあるようにです。(ローマ10:15)

15**,には平和の福音の備えをはきなさい。(エペソ6:15)

 その意味は、福音は主の日に礼拝堂の講壇から信徒を相手に語っているだけでは不十分である。福音は礼拝堂の外に出て行って、未信者に対して語らなければならないという意味である。

 実際、使徒パウロは、安息日には会堂で語り、平日は毎日広場や、一般の講堂で、神のことばを語った。

  それでパウロは、会堂ではユダヤ人たちや神を敬う人たちと論じ、広場ではそこに居合わせた人たちと毎日論じ合った。(使徒17:17)

   パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、人々を説得しようと努めた。9**,しかし、ある者たちが心を頑なにして聞き入れず、会衆の前でこの道のことを悪く言ったので、パウロは彼らから離れ、弟子たちも退かせて、毎日ティラノの講堂で論じた。10**,これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。(使徒19:8-10) 

 神のことばの務めを表すことばには、ケーリュッソー(宣べ伝える)という動詞と、ディダスコー(教える)ということばの二つがある。大雑把な言い方であるが、前者はおもには未信者を回心へと導く伝道の働きであり。後者は信者にみことばを守るように育てる働きである。上述と関連付けて言えば、パウロは安息日には会堂で聖書を論じ、平日には広場や講堂へも進み出て福音を語った。そこでは教え(ディダスコー)と宣教(ケーリュッソー)の両方が行われていたが、宣教の舞台は礼拝堂の外にも大きく広がっていた。