苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

再考:「置換神学」という誤ったレッテル

序 ディスペンセーション主義者は、改革派や長老派が立つ契約神学に対して「置換神学」というレッテルを貼って批判することがある。筆者は本稿で、この呼称は不適切であることを示したい。

 

1 契約神学とは
 神がアダム以来の人類を約束に基づいて段階的にキリストへと導くという救済史観は、すでに教父エイレナイオスの著書『使徒的使信の説明』に見られるが、旧新約救済史における啓示を契約概念によって明示的に把握したのは改革者ブリンガーであり、カルヴァン、ウルジヌス、オレヴィアヌス、ロリクスを経て、契約神学を大成したのはコッツェーユスである。

 神は始祖アダムと「わざの契約」を結び、完全な従順に対して「いのち」を約束された。だが、アダムは神に反逆した。結果、アダムとその子孫は自らの「わざ」によっては「いのち」を得られなくなった。そこで神は、「恵みの契約」を立て、堕落した人間を救う道を備えられた。恵みの契約は、創世記3章15節の原福音に始まり、相続を特徴とするアブラハム契約、律法と幕屋を特徴とするモーセ契約、神殿と王国を特徴とするダビデ契約へと段階的に展開し、最終的にイエス・キリストにおいて成就する。つまり、原福音からキリストの契約まで段階はあるが、一つの「恵みの契約」なのである。

 また契約神学は、神の恩恵と契約共同体としての神の民(教会)の応答との関係を整理して、救済史を一貫して把握する枠組みを提供する。

 

2 契約神学は「置換」を教えているのか

 一部ディスペンセーション主義者による「置換神学」とは、神の民としてのイスラエルが歴史的に排除され、教会という別の主体に取って代わられたとする理解を指すが、「教会がイスラエルに置換された」という理解は、契約神学が提示する「一つの契約の民が歴史の中で展開していく」という枠組みの誤解である。契約神学は、ローマ書11章の記述にしたがって、旧約のイスラエルと新約の教会は断絶した別個の民ではなく、同一の神の救済計画のもとにある一つの民であると理解している。歴史の中で形を換えても、同じ契約に立つ一つの神の民であって、旧約のイスラエルと新約の教会と置き換えたわけではない。「置換」というレッテルは的外れである。旧新約にある「イスラエル」という言葉をすべて「教会」に置き換えて読んだりはしない。

 もっともディスペンセーション主義には、古典的ディスペンセーション主義、修正ディスペンセーション主義、プログレッシブ・ディスペンセーション主義といった多様性がある。

 古典的ディスペンセーション主義は、イスラエルと教会を厳格に分離し、神の救いの計画は二つあり、イスラエルは地上的民であり、教会は天的民であるとする。この立場からすれば、教会がイスラエルに対する約束を継承するという契約神学の主張は、イスラエルと教会を置換したということとして取られる。

 修正ディスペンセーション主義は、教会が旧約においてある程度予見されていることを認めて、旧約・新約の統一性を認める。とはいえ、イスラエルと教会の区別を依然として堅持するので、「置換」という批判的枠組みは残っている。

 プログレッシブ・ディスペンセーション主義は、「すでに」と「いまだ」の枠組みで、教会は終末的イスラエルの部分的成就であると理解する。それゆえ「置換神学」というレッテルは意味がなくなり、残っているのは将来のイスラエルの扱いの違いということになる。

 したがって、上の「レッテル貼り」の問題は、古典的および修正ディスペンセーション主義に関して言っていることである。

 

3 ローマ書11章に見る契約神学の枠組み

 

(1)「一つの木」としての神の民

 契約神学の契約理解を最もよく示すのは、ローマ書11章におけるパウロの議論である。ローマ書9章から11章の議論は、イスラエルのつまずき、異邦人の召し、最終的な回復という救済史を示している。その中で、11章ではイスラエルと異邦人の関係が「オリーブの木」の比喩によって説明されている。すなわち、「枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けている」(11・17)とある。

 この譬えが示しているのは、第一に、オリーブの木は一つであり、その根はアブラハム契約であるということである。神の民は本質的に一つであり、旧約と新約において二つの別個の民が存在するのではない。ローマ書4章にもあるように、信仰によって義と認められたアブラハムの信仰に倣う私たちキリスト者も、同じ契約の民に加えられたということである。信仰によって義とされた旧約の人々については、ヘブル書11章に詳しい。

第二に、その一つのオリーブの木において、一部の枝の剪定と接ぎ木がなされる。すなわち、ユダヤ人の一部はイエスをメシアであることを拒絶して「不信仰」によって折られる枝となり、異邦人の一部はイエスがメシアであることを信じる信仰によって台木に接ぎ木される。ここで語られているのは「置換」ではなく「同一の民の歴史的展開」である。ここで言う「一つの神の民」とは、歴史の中で形態は変化しても、神の契約の対象としての同一性が保たれているという意味である。

 

(2)イスラエルには裁きと希望がある

 さらにパウロは、イエス・キリストを拒絶した一部のユダヤ人たちはイエスを拒絶した「不信仰によって折られた」(11・20)と述べるが、他方で、そうしたユダヤ人たちも「不信仰の中に居続けないなら」つまり、イエスをメシアとして受け入れるならば、「再び接ぎ木される」(11・23)とも語っている。このことは、イスラエルの将来に対する希望が閉ざされていないことを示している。契約神学は、ユダヤ人の裁きと将来の希望の両方をそのまま受け止めて表現している。

 

4 「イスラエル」という語の三つの意味と現代のイスラエル国

 

(1)三つの意味

 注意すべきは「イスラエル」という語の多義性である。第一は、救済史的意味におけるイスラエル、すなわち神の契約の民である。第二は、民族的意味におけるイスラエルである。そして第三に、現代のイスラエル国である。この三者は歴史的・神学的に深く関連しているが、同一ではない。ローマ書9章6節には「イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。」とあり、前半の「イスラエル」は民族的イスラエルを、後半の「イスラエル」は救済史的イスラエルを指す。

 もちろん、このような区別の仕方自体についても神学的立場の違いが存在する。とりわけディスペンセーション主義の多くは、救済史的イスラエルと民族的イスラエルの連続性をより強く主張する。しかし、少なくともローマ書11章においてパウロが語っている主題は、第一義的には信仰に関わる意味でのイスラエルについてである。この区別を踏まえずに、聖書の預言をそのまま現代国家へと直結させるのは慎重さに欠いている。

 

(2)教会の公同性と歴史的連続性

 他方で、新約の教会は、民族的イスラエルを排除しない。むしろ、ユダヤ人と異邦人の区別を超えて、すべての人をキリストにあって一つの民として招くものである。実際、使徒たち自身がユダヤ人であったこと、そして主イエスご自身がユダヤ人として来られたことは、神の救済計画が歴史的連続性の中で展開していることを示す。

 パウロはガラテヤ書において、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(3・27-29)と語る。この宣言は、神の民の境界が民族的区分を超えていることを明示している。

 

(3)現代のイスラエル国をどう見るか

 1948年に成立したイスラエル国は、メシアニック・ジューと呼ばれる人々は例外として、国家および国民の大多数は、現時点においてイエスが神から遣わされたメシアであることを受け入れていない。この事実をローマ書11章の論理に照らして、イエスをメシアとして受け入れていない事実から言えば、彼らは「不信仰によって折られた」枝の状態のままである。だから現代のイスラエル国を神学的に特別視して、無条件に支持するわけにはいかない。

 だが、ディスペンセーション主義者の一部には、終末論的枠組みと結びつけて現代のイスラエル国家を強く支持する傾向が見られる。しかし、新約の啓示が示すように、神の民はすでにキリストにあって民族的区別を超えた共同体として形成されている以上、特定の国家を神学的理由によって無批判に特別視すべきではない。国家イスラエルもまた、他の諸国家と同様に、歴史的・政治的現実の中で評価されるべき存在である。

 

(4)イスラエルの選びと将来の希望

 とはいえ、民族としてのイスラエルに対する神の選びが、新約時代において完全に無意味になったと聖書が教えているわけではない。パウロは、「彼らは福音についてはあなたがたのゆえに敵であるが、選びについては父祖たちのゆえに、愛されている者です。神の賜物と召命は、取り消されることがない」(ローマ11・28-29)と述べている。この言葉は、イスラエルの将来における回復について告げている。

 したがって、将来においてイスラエル国の多くの人々がイエスをメシアとして受け入れるという大規模な出来事が起こる可能性もある。むしろそれは、ローマ書11章の文脈から自然に導かれる希望である。この観点からすれば、1948年のイスラエル国の成立という歴史的出来事を、ただちに聖書預言の成就として断定することはできないにしても、今後、起こりうる霊的回復の前兆としての政治的回復だと理解できる可能性もなくはない。

 

結論 以上のように、「置換神学」というレッテルは、契約神学の本来の主張を適切に表現しておらず、むしろその理解を妨げ、契約神学の本来の主張を単純化し、誤解を固定化する弊害がある。安易なレッテル貼りでなく、聖書に即した丁寧な神学的対話こそ実りをもたらすことであろう。