苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

「無前提で聖書を読んでいるつもり」の危うさ

敬虔主義の始まり
 教会史において17世紀はプロテスタント正統主義の時代と呼ばれる。これは、ローマ・カトリック教会が聖書と伝統を並立する権威としたのに対し、「聖書のみ」の原理に立って、聖書に根差した教理体系を厳密に構築しようとした時代であった。その営みは、教理の精緻化と体系化において成果を挙げ、宗教改革の遺産を確固たるものとした。

 だが、もう一方で、教理的正確さの追求に力点が置かれた結果、祈りや交わり、伝道といった信仰の実践的・内面的側面が軽んじられた。信仰が生きた現実としてではなく、正しい命題の把握として理解されがちになるとき、教会は内的生命力を弱らせていった。このような状況への反省から生まれたのが、敬虔主義運動であった。

 シュペーナーが始めたこの運動は、教派を新たに立てることを目的としたものではなく、教会内における信仰刷新の試みであった。彼は週の半ばに「敬虔な者の交わり」を開き、そこでは聖書そのものを読み、互いに分かち合い、祈ることを重んじた。このような営みを通して、信徒の内に信仰の喜びと自発性が呼び覚まされ、伝道や宣教への熱意も高められていった。実際、その流れの中から世界宣教への志が生まれ、後にハレ大学神学部の設立にもつながっていく。

 敬虔主義は単なる神学的逸脱ではなく、正統主義が直面していた「霊的生命の希薄化」という危機への応答であった。すなわち、正統主義が「真理」を守ろうとしたのに対し、敬虔主義は「生きた信仰」を回復しようとしたのである。

 

敬虔主義の大学神学部の自由主義化の背景

 その後の歴史において、敬虔主義運動は信仰覚醒運動を生み出し、世界宣教の原動力になって成果を上げて行った。

 だが他方では、本来、正統的信仰を背景とした敬虔主義から生まれたハレ大学神学部は、18世紀の合理主義神学、さらには19世紀の自由主義神学へと傾斜していった。この展開をどのように理解すべきであろうか。

 ポイントは、「無前提で聖書そのものを読む」という志向の持つ問題である。敬虔主義は、教会の神学的伝統や体系に依存することを警戒し、聖書に直接に立ち返ろうとした。しかし、人間は本質的に何らかの前提や枠組みなしにテキストを読むことはできない。もし神学的伝統を意識的に受け取らないならば、その空白は別の前提によって満たされることになる。しかも無自覚のうちに。

 敬虔主義が興隆した時代は、まさに啓蒙主義の時代であった。啓蒙主義は「世界は閉じた系である」とする理神論的傾向が強く、人間の理性をもって伝統や権威を吟味し、迷妄を打ち破ろうとする運動であり、その点で一定の歴史的意義を持っていた。しかし同時に、この思潮は、聖書をもまた自然的理性の裁きの下に置き、超自然的要素を排除し、聖書各巻をそれぞれの時代の文化現象へと還元する方向へと進んでいった。つまり、無前提で聖書を読んでいるつもりである学者は、実際には「世界は閉じた系である」という時代思潮を前提としているのである。

 こうした方向に近代主義神学が流れたのは、神学の場が教会でなく、大学神学部になっていったことももう一つの背景としてある。神学が信仰共同体の神学でなく、学問体系のなかの神学になったのである。少々うがった見方をすれば、神学の目的が、本来の神を愛し隣人を愛し、キリストの体である教会を形成することから逸脱して、学者たちの野心的な自説開陳になってしまったからであろう。

 敬虔主義者たちは、古代教父や宗教改革の神学的成果を全面的に否定したわけではないが、それらを二次的に位置づけて、「聖書そのもの」に直接向かうことを重視した。その結果、神学的伝統による解釈の枠組みが弱まり、代わって当時の時代精神である啓蒙主義由来の理神論の「閉じた系としての世界観」が無自覚の前提として入り込むことになった。もっと単純にいえば、伝統的神学は聖書由来の有神論的世界観の枠組みを前提として聖書を解釈したのだが、伝統的神学を軽んじたとき、啓蒙主義由来の理神論的世界観の枠組みを前提とし、聖書を文化現象に還元する聖書解釈が、特に大学の神学部という場では、「学問的」ですぐれているかのように映るようになったのである。

 18世紀以降、現代にいたるまでこの世における支配的な思考の枠組み(パラダイム)は、「世界は閉じた系である」ということであろう。ゆえに、世界内で起こって来た事柄はすべて、世界内における因果から説明することができるという実証主義になる。新約聖書の成立も、そうした文化現象だとすると、後期ユダヤ教の視点からこれを解釈するのが正しいということになるし、創世1,2章は古代カナンの創世神話の枠で解釈すれば正しいということになる。今日の福音主義の聖書解釈の一部においても、このような枠組みが前提とされている例が見られる。私たち自身もまた、よほど注意しなければ、このような時代的前提の影響を無自覚に受けている可能性を否定できない。

結び
 
以上を踏まえて、今日の福音主義教会にとっての教訓はなにか。正統主義は「真理」を守ることにおいて重要な役割を果たしたが、時として信仰の「生命」を弱める危険を伴った。他方、敬虔主義はその「生命」を回復しようとしたが、神学的枠組みを弱めることによって、結果的に合理主義に呑み込まれる側面を持った。

 ゆえに、教会に求められるのは、真理か生命かの二者択一ではなく、その統合である。すなわち、聖書に忠実な教理的確かさと、祈りと交わりと伝道に生きる実践的敬虔とを、切り離すことなく保つことである。そのとき初めて、教会は真理においても生命においても健全であり続けることができる。