神は北イスラエル王国が堕落したとき、アッシリア帝国を用いてこれを滅ぼされた。イザヤ書10章5節には、「ああ、アッシリア、わたしの怒りのむち」とあり、主なる神がアッシリアを裁きの道具として用いられたことが明言されている。
しかし、同章後半において主は、アッシリアの王の高慢を責め、その思い上がりゆえにこれを罰せられると宣言される(10章12節)。すなわち、神はご自身の主権のもとで一つの国を用いて別の国を裁かれるが、その「用いられた国」もまた、その罪ゆえに神の裁きの下に置かれるのである。
このことから明らかなように、「神に用いられること」と「神の前に正義であること」とは同一ではない。神の摂理の中である国や指導者が歴史的役割を担うことがあったとしても、それゆえにその行為がそのまま神の義として正当化されるわけではない。
現代の問題に目を向けるとき、まず区別すべきは事実評価と神学評価である。たとえば、イラン政権が民主化を求める自国民を虐殺し、また各ミサイル開発を進めていることが事実であるとしても、そのこと自体は、米国とイスラエルによる軍事行動を直ちに「神の正義の戦い」と断定する根拠にはならない。
むしろ聖書の見方からいえば、仮にある悪が別の力によって抑えられることがあったとしても、その力を行使する側もまた神の前に責任を負う存在であり、その動機や方法、その高慢は罰せられる。
この点は新約聖書においてさらに明確になる。主イエスは地上の政治権力を神の国と同一視せず、「カエサルのものはカエサルに」と語ってそれを相対化され、また剣による解決に対して厳しい警告を与えられた。したがって、いかなる国家の軍事行動であれ、それを神の国の義と直接結びつけてはならない。
一部の福音派指導者たちは、ドナルド・トランプによる対イラン攻撃を、悪に対する正義の執行として称賛する。しかし、旧約の預言者的視点に立つならば、そのような行動は短絡的とのそしりを免れまい。
さらに言えば、政治的指導者の行為を聖書的言語によって、無批判に正当化することは、結果としてその指導者の高慢を助長する危険を伴う。実際、トランプが自分の顔をキリストの顔に置き換えたAI画像を投稿した冒瀆的行為が報道されている。だがその責任の一部は彼を称賛した軽率な一部福音派指導者たちにもある。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えられる。
ゆえに、キリスト者は歴史の出来事に神の摂理を認めつつも、それをもって特定の国家や指導者を神の義の担い手として絶対化してはならない。むしろ、自国を含めたすべての国民と指導者が神の前に立つ罪人であることをわきまえて、時代を見つめることが求められているのである。