2~5世紀の古カトリック時代、ニカイア信条、カルケドン信条など公同信条が生み出された。理由は、第一に異教世界に福音が広がって行くにあたって、異教(特にグノーシス主義)とどこがどうちがうのかがはっきりさせられる必要があったからである。第二に、当時はローマ帝国の迫害下で殉教の覚悟が必要だったから、真の神はどのようなお方なのか、真の救い主はどのようなお方なのかを、正確に知る必要であった。せっかく殉教したのに、信じる対象が間違っていて地獄に落ちましたというのでは目も当てられない。結果、父子聖霊の三位一体の教理と、キリストは真の神であり真の人であるという二性一人格の教理が確立した。 この時代、教会では洗礼を受けようとする人、堅信礼を受けようとする人のためにカテキズムがなされた。それは信条を解きほぐしたものであった。
ローマ・カトリックは、5世紀に翻訳されたラテン語聖書を用い、典礼のことばもずっとラテン語で行ってきた。短い宗教講話は、それぞれの地域のことばでなされていたけれど礼拝の中心はあくまでミサであった。ローマ帝国の時代、共通語はラテン語だったが、やがてゲルマン民族が移動してきて、ヨーロッパ各地の言葉が変化していくと、ミサでのラテン語の典礼語は、会衆にとっては理解不能となって行った。1960年台の第二バチカン公会議以後、ミサを現地のことばで行うことが許されるようになったが、それでもカトリック礼拝の中心はミサである。
こうしたカトリックの礼拝は16世紀プロテスタントの改革者によって批判され、信仰には理解が伴う必要があるということが強調され、プロテスタント教会における礼拝の中心は神のことばの解き明かしとしての説教となった。また、洗礼と聖餐におけることばは理解のできる現地のことばで語られることになった。
ある時、カトリックの友人がこんなことを言っていた、「カトリックでラテン語ミサがなされていたことにもメリットはあったんだよ。それは、世界中どの地域・どの国でミサにあずかっても、同じものが受けられるのは良いことだった。世界中どこでも、マクドナルドを食べられるみたいにね。プロテスタントでも聖餐はあるが、なんといっても説教中心なので、説教者によって、ずいぶん礼拝の質が左右される。」教会の公同性、教理の安定性、そして礼典は客観的有効性(事効説)ゆえに信徒の理解は必須ではないという理解が、ラテン語をずっと使ってきた背景にある。
それはそれとして、友人の譬えからいうと、カトリック教会がマックだとすれば、プロテスタントは教会ごとに料理人がいて、バラバラだということになる。こうした牧師ごとに説教がバラバラという弊害を避けるために、16,17世紀の教会は、聖書的教理を確立することを目ざして多くの信条が生み出され、浩瀚な神学体系が構築された。そうした神学的営みと同時に、教会では、古代教父にならってカテキズム教育を充実させることになる。ウェストミンスター信仰基準はプロテスタント諸信条の集大成にあたる。
だが、正統神学構築に専念した17世紀は「死せる正統主義」の時代だったと評する人々もいるような状況(今は再評価されつつあるが)となっために、18世紀に反動として現代の福音派の直接の先祖にあたる敬虔主義運動が生じた。敬虔主義運動は正統主義に対する反動であるから、神学・信条・カテキズムに不十分さを感じて、聖書そのものを読むことに励んだ。これを聖書敬虔主義という。
だが、その結果、あの友人が言ったように、敬虔主義の系譜である福音派の教会では、説教者の霊性、聖書理解、表現力によって礼拝の質が左右されることになって現在がある。信徒の信仰教育に関しても、聖書通読は奨励されても、教理における一致が軽んじられるので、信仰理解は主観的で不安定になる。主観的で不安定だから、試練の嵐が吹くと、フラフラしてしまう。教理を軽んじる福音派の弱点はここにある。
そうした状況に問題を感じてであろうか、ここ20年間ほど、我が国の福音派の教会でも、慣れないハイデルベルク信仰告白とかウェストミンスター信条などを、教会の信徒教育でもちいるところがぽつりぽつりと現われて来ている。これらの信条は厳密に聖書に根差して書かれたものであるから、時代を超えて現代にいたるまで、世界中の改革派圏の教会で広く用いられてきた。時代の流行でなく、聖書に根差していることの尊さである。
とはいっても、これらは16,17世紀ヨーロッパの「キリスト教社会」の時代に生み出された信条としての限界がある。18世紀の啓蒙主義運動とその影響を受けた近現代の聖書学と神学を知らない。近代国家が教会から離れ、世俗化してきたことを知らない。キリスト教社会の中の教会であったから、伝道や世界宣教について明示的には触れていない。そして、3,4世紀前にヨーロッパの言語で書かれた文書を、現代人が読むことにともなう難しさがある。また地球環境問題を知らない。このような欠けがあることは否めない。
筆者は、北海道聖書学院のカテキズムのクラスでは、最初、ウェストミンスターを用いてみたが、上のような欠けを感じた。そこで、新たにカテキズムを書くことにした。題して『神を愛するための教理問答』。できあがって、苫小牧福音教会の祈り会でも2巡、用いてみた。結果、北海道聖書学院の学生たちも、水曜の祈り会で学んだ兄弟姉妹も、結構、たのしそうで好評だった。「もやもやしていたことが、はっきりと分かった。」「たくさんの聖書のみことばが、こんなふうにつながっているんだなあ、とわかった。」というのである。
これは公開すれば、諸教会のお役に立つと思われたので、公開することにした。
リンク先から自由にダウンロードして、役に立つと思われたら、ご自由に用いてください。
https://1ab4c85d-7ef5-40e3-b99d-780b70ac09e5.filesusr.com/ugd/2a2fcb_a37f62e1388e4f9db0aaa1be0554a0cd.pdf