苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

国家の分と越権——聖書から見た「教会と国家」(3)

(1)国家の分

 国家は神の立てた権威であり、神のしもべであるとすれば、神に託された任務とは何なのでしょうか。それは、先にも少々触れましたが、堕落し利己的になってしまった人間が住んでいる世界を治めることです。ローマ書13章は、国家の務めを二つに分けて説明しています。

 一つは、社会の秩序の維持です。「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。」とあります。つまり、国家は神から託された剣の権能を用いて、善をなすものたちを守り、悪をなす者たちを処罰することによって、社会の秩序を維持するのです。

 国家のもう一つの務めは、徴税することによって富の再分配を行うことである、と読むことができるでしょう。「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。」

 近代国家は福祉国家的になっていますので、国家としての業務は非常に多岐にわたるものとなっていて、社会秩序の維持と徴税による富の再分配だけを挙げたのでは足りないと思われるでしょうが、考えてみると、意外と今日も行われている様々な国家の仕事は、これら二つに仕分けすることができるのではないでしょうか。とにかく、国家は国民の暮らしが正常に営まれるために、これらの世俗的業務を果たすことをその任務としていることを、為政者も国民も認識することが大事です。

 

(2)国家の越権

 しかし、聖書が国家について教えているもう一つの重要なことは、国家権力者はしばしばサタンの誘惑に敗れて傲慢になり、この与えられた世俗的業務という分を越えてしまうということです。なぜでしょう? アダムの堕落以来、人間にはむさぼりという罪があって、その許された分に満足することができないからです。権力者というものは、世俗的領域だけでなく聖なる領域にも踏み込みたくなり、国民の行動だけでなく心までも支配したいと望み、一時的な政権維持でなく永久政権を望み、あるいは狭い国土で満足できずに覇権の拡大を望みがちなものです。そのために、国民の思想・宗教までも支配しようとするのです。

 列王記第一12章にその例が見られます。ソロモン王の息子レハブアムが王となったとき、長老たちは大事業家であったソロモン王時代の重税を軽減して民の負担を軽くすれば、民は王を支持するでしょうと助言しました。しかし、レハブアムは長老たちを過去の人として退けてしまいます。そして、「君は父上に勝って偉大な王となるのだから、民にさらに重税を課するがいい」という意味の馴染みの若造たちの助言に従いました(10,11節)。これによって民心は王から離れて、実力者ヤロブアムが王国を割って、北にイスラエル王国を建てることとなりました。

 しかし、北の初代王となったヤロブアムには恐れがありました。それは神殿がエルサレムにある以上、イスラエルの民の心はいずれレハブアムになびいて、自分は殺されるに違いないということでした。そこでヤロブアムは、国家宗教を創設します。まず出エジプト伝承にも登場した金の子牛神話に基づいて偶像(出エジプト32章参照)を造り、建国神話を捏造しました(28節)。ついで、北イスラエル国家宗教の聖地をベテルとダンに定め、ここに神殿を建立し、ここに先の子牛像を安置し民に参拝させます(29、30節)。さらに、「高き所」と呼ばれた偶像礼拝施設をベテルとダンに設置し、国家宗教普及のため祭司たちまで任命しました(31節)。そして、祭日を8月15日に定めたのです(32-33節)。

 ダニエル書3章も開いてみましょう。バビロンの王ネブカデネザルがドラの平野に巨大な金の偶像を立てて支配下に収めた諸民、諸国、諸国語の者たちに拝ませたのも、類似した行為です。違いは、ヤロブアムが統制しようとしたのは自国民であったのに対して、ネブカデネザルはこの金の巨像崇拝によって他民族・他国民をも統制しようとしたという点です(ダニエル3・1-7)。

 かつて明治政府の伊藤博文が、植民地主義欧米列強の国家宗教化したキリスト教に代わるものとして皇室を「機軸」として、国家神道を創設して国民の精神的統合を図ったことはヤロブアム的な振舞いであり、そして、太平洋戦争時には、侵略した東アジア、東南アジア諸地域に神社を造り参拝させたことはネブカデネザル的な振舞いでした。

 ローマ皇帝は国民に皇帝崇拝を強要しました。フランス革命の指導者は理性の女神の絵を教会に持ち込んで礼拝させました。また、スターリン毛沢東金日成ポルポトたちが行った共産主義による思想統制も同じことです。彼らは広場に自分の銅像を造り、写真(御真影)を各家庭に啓示させました。黙示録13章によれば、こういう傲慢な振舞いをする国家権力者の背後にはサタンがいて、彼に特別なカリスマ性を与えているのです。

「私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。(中略)そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、『だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう』と言った。」(黙示録13・2、4)

 神は国家をご自分のしもべとして立て、世俗的業務を託しておられます。しかし、国家権力はときに自らを絶対化して、聖なる業務にまで首を突っ込み、国家主義に堕してしまいがちです。私たちは警戒していなければなりません。

 ローマ帝国コンスタンティヌス大帝の時代にミラノ勅令によって、キリスト教を準国教とし、テオドシウス大帝のときに国教とします。皇帝教皇主義(カエサロ・パピズム)というかたちです。ただしこの場合、皇帝が教会の公会議の招集権を持ちましたが、皇帝は決議の最終的決定権を持つことはしませんでした。たとえば、ニカイア会議を招集したコンスタンティヌス大帝はキリストの神性を割り引くアレイオス派を推していましたが、会議の結論はキリストの神性を十全に肯定するアタナシオス派のものでした。

 とはいえ、国教会主義の場合、教会の体制の維持はしやすくなりますが、その歩みにはさまざまな困難な課題が伴ってきます。