はじめに
二十歳前に教会に通い始めたころ、礼拝の中で「使徒信条告白」があり、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という文言があります。
一つには、ピラトという歴史上の人物名を挙げることによって、主イエスの十字架の出来事はフィクションではなく歴史の中で起こった事実であるということを明白にするためです。歴史の中に神の御子が来られたことを否定する古代のグノーシス主義に対する区別のためでしょう。
もう一つ大事なことは、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」というくだりは、キリストと国家、教会と国家との難しい関係を示しているということです。聖書を注意深く読んでみると、神の民とこの世の権力、つまり「教会と国家」の問題は、旧約時代も新約時代も繰り返し出てくることに気づくでしょう。再臨が近づく「産みの苦しみ」の時代に、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」と主イエスは予告されました。民族主義・国家主義が勃興するとき、私たちはサタンがどのように国家権力を操り、神の民を惑わすのか、その策略を見抜く力を備えておくことが必要です。
9年前『舟右』に載せていただいた原稿です。5回に分けて連載します。
もくじ
1 国家は神のしもべだが、神聖ではない
2 愛国心は特異な歴史現象である
3 国家の分と越権
4 政教癒着と神のさばき
5 政教癒着の黒幕
むすび
1 国家は神のしもべだが、神聖ではない
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。」(ローマ13・1-6)
ローマ書13章で「上に立つ権威」と呼ばれているのは、剣を帯び、税を徴収している権威ですから(ローマ13・4、6)、当時でいうならば、ローマ皇帝を頂点とするこの世の統治機構のことです。当時、ローマ皇帝はもちろんキリスト教徒ではなく、ローマ神の神祇官長という職務を兼ねていました。にもかかわらず聖書は、この世で「上に立つ権威」は天地万物の真の神のしもべであるというのです。神は、教会には霊的領域における派生的主権を委ね(マタイ16・18、18・18)、国家には世俗領域における派生的主権を委ねておられるのです(ローマ13・1-7)。
神が「上に立つ権威」を立てたというのは、「王の命令は神の命令であり、王は国民に生殺与奪の権を持つのだ」という王権神授説を意味しているのでしょうか。国家の権限というのは神聖で絶対的なものだという意味で、ローマ書13章は国民に権力者への服従を求めているのでしょうか。前世紀のドイツでナチスが支配した時代、国家は「創造の秩序」に属する神聖なものであるとされ、家庭も職場も教会も国家のためにあるとされました。また、我が国では戦前の国家主義の時代、教育勅語において万世一系の皇統が神聖なものであり、道徳の淵源でもあると教えられ、お国のために生きて死ぬことこそ最も素晴らしい人間の在り方だと教えられていました。
では、聖書は権力の始まりについて、なんと教えているでしょうか。創世記1、2章によれば、創造において神がお定めになったことは、安息日礼拝と家庭と仕事の三つです。他方、国家の始まりは、人類堕落・大洪水後の創世記9章に見ることができます。
「 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9・5-6)
また地上における最初の権力者はニムロデという人物であって、彼は最初シヌアルの地の支配者でしたが、やがて覇権をメソポタミア全域に拡大したと記録されています(創世記10・9、10)。創世記は次の11章で、彼の根拠地シヌアルに、人間の傲慢の象徴ともいうべきバベルの塔が築かれ、神に罰せられたと教えています。
このようにしてみると、神は確かに国家権力をご自分のしもべとして立てて、一定の権限を与えて社会に秩序をもたらす手伝いをさせているけれども、それは創造に秩序に属する神聖なものではなく、堕落後にやむなく立てられたものであり、かつ、ともすれば傲慢になって暴走する傾向があるものだと教えていることがわかるでしょう。悪者を罰する剣の権能を託された国家は、人類堕落以前には無用でした。しかし、人類が堕落し皆が利己的にふるまうようになり、剣をもって社会正義を守る必要が生じたので、神は摂理によって剣の権能を託した国家を立てられたのです。
国家は確かに神が立てたしもべですから、これを重んじるべきですが、国民の生きる目的とか道徳の淵源とされるような神聖なものではありません。もし、「神聖」という形容を使うとするならば、国民の神礼拝と家庭と仕事という生活が神聖なものであって、これを正常に行うことができるために立てられた手段が国家です。国家のために国民があるのでなく、国民の正常な生活のために国家が用意されたというのが聖書の教えです。
それにしても、イスラエル国家の場合、真の神が預言者を用いて油注ぎを行って王が立てられましたが、古代の異教の国々の王たちは、神の油注ぎを受けたわけではないのに、なぜ「神のしもべ」としての務めを果たしうるのでしょうか。文化人類学者によると、世界中の王権というものは、祭司王として始まったものだそうです。事実、メソポタミアの王たちやローマ皇帝は神々の祭司であり、エジプトのファラオは現人神でした。邪馬台国の女王卑弥呼も、大和朝廷の大王(おおきみ)ないし天皇も祭司王でした。偽りの神々に仕える祭司である王が、どのようにして民の生活する社会の秩序を維持する働きをするように神は摂理的に導かれたのでしょうか。少し考えてみました。
おそらく次のようなことです。戦国時代に下剋上で成り上がった者も、自分が権力の座に着けば、善を勧め悪を罰し社会秩序を維持する働きをするようになります。そうしなければ、自分の権力ある地位も危うくなるからです。秀吉が天下人となったとき、①刀狩をやり、②身分統制で兵農分離をやり、③惣無事令(そうぶじれい)で大名が武力をふるうには上の許可が必要だと定め、④もろもろの大名統制法を決め、⑤礼法・儀礼の統一を行いました。
まあ、お粗末な思考実験にすぎませんが、申し上げたいのは、国家権力というものは、創造の秩序に属する神聖なもの、道徳の淵源、国民の生きる目的となるようなものでは決してないということです。国家主義とは国家を絶対化する偶像崇拝にすぎませんから、「国が国に向かって立ち上がる」国家主義の時代、私たちはそういうものに酔っぱらわないように注意すべきです。(続く)