苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

漱石「今死んじゃ困る。今死んじゃ困る。」

 英国に遊学を経験した漱石は、近代人として「家」から独立して個人主義で生きて行くべきだと考えていました。しかるに、個人主義は、自分自身が立派な良心的な人格であることによってのみ成り立つことです。ところが、漱石は、自分が平常は立派そうにふるまっていても、いざというときになると思いがけないほど下劣な本性が現れてくることに苦しみました。彼の作品でいえば、『こころ』の「先生」が、強欲な叔父を軽蔑しながら、いざとなると、自分自身も利己心から友を裏切り死にいたらしめことに苦しみ続け、最後は自ら命を絶ったことに表現されています。
 自我の問題、キリスト教でいえば原罪が、良心に基づく個人主義で生きようとする漱石を阻んだのです。この苦しみは随筆『硝子戸の中』にも表現されています。その苦しみのなかで、彼はこのどうにもならない自我を放下してしまいたいというふうに考えました。

 私の見たところ、漱石はその自我の問題の解決が実はキリストにあるのではないかと予感していたようです。というのは、彼の良心の敏感さは、他の明治の文筆家たちには見られない異質のもので、キリスト教的な絶対者の前での良心であるように、私には思えてならないからです。

 しかし、漱石キリスト教が「悔い改めよ」と厳しく求めることに、強い抵抗があったようです。自我にこそ問題があり、実は倫理的に破綻している現実を認めて、絶対者の前にへりくだることを求めるキリスト教に対して、彼は強い拒否感を抱いていたのだと私には思えます。そのことは、『硝子戸の中』に登場する2頭の犬を通して象徴的に表現されています。1頭は「キリスト教徒のようなジョン」という名をした犬で、始終ギャンギャン吠えているのでとうとう飼い主に叩き殺されてしまった。もう1頭はトロイの英雄ヘクトルの名をつけられた犬で、これはある朝、防火水槽だったか何かで静かに死んでいたというのです。この異教徒の名がつけられた犬の死に方に漱石は共感しているのです。

 神の前にへりくだり自我を明け渡すことを拒否した漱石は、「則天去私」という悟りの境地を口にするようになります。これが最初に出てくるのが『硝子戸の中』の末尾です。漱石キリスト教唯一神を意識しすぎるほど意識し苦しみながら、あえて、拒絶した人でした。そうして、東洋的な「則天去私」という悟ったようなことを書いています。しかし、その悟りは本物だったのでしょうか。彼が晩年までその作品で描き続けたのは、一貫して自我の問題でした。彼の最期が近づいたときのことばは、「今死んじゃ困る。今死んじゃ困る。」だったそうです。