「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体はなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれを押し潰すときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについてはなにも知らない。
それゆえ、我々のあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、我々の満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえ、我々はよく考えるようにつとめよう。そこに生きることの根源がある。」(L200,B347)
はじめに
ブレーズ・パスカル(1623-62)の天才
パスカルと言えば、毎日の天気予報でヘクトパスカルという単位が使われていることを御存じであろう。ほんの少し前までミリバールという単位が使われていたものだった。彼が気圧に関する研究をした物理学者からである。また、パスカルのことばでよく知られているのは、「考える葦」の断章以外では「クレオパトラの鼻、もしそれがもう少し低かったら、大地の全表面は変わっていたであろう。」(L413,B162) であろう。彼は近代フランス語の模範を作り示した文章家でもある。
パスカルは17世紀フランスの天才であった。17世紀という時代は近代の始まった時代であり、同時代を生きた人には近代合理主義の祖といわれるルネ・デカルトがいる。パスカルは、いわゆる万学の天才である。彼自身のことばにつぎのようにある。
「オネットム。彼は数学者だ、雄弁家だ、などといわれないで、ただ彼はオネットムだと言われなければならない。この一般的な性質だけが、私には好ましい。ある人にあったとき、その人の著書を思い出すというようなことは、その人にとってよい兆候ではない。」(B35,L647)
オネットムというのは直訳すれば「誠実な人」という意味であるが、ちょっとニュアンスがちがう。このことばは当時社交界での理想的人物の意味である。これを「君子」などと訳しているものもある。しかし「誠実な人」も「君子」も適切でないのであえて訳さないでおいた。
ともかくパスカルの理想としては、彼のみならずおそらく当時の知識人の理想としては、一般に専門家と呼ばれることは好ましいことではなかったのである。そしてパスカル自身、万学の天才であった。彼の短い生涯の業績を一息の紹介した文章としてしばしば引用されるシャトーブリアンのことばがある。
「十二才にして棒と輪とで数学をつくりだし、十六才にして古代以来現れた最も優れた円錐曲線論を書き、十九才にして悟性の中にでき上がっている一つの学問を機械に還元し、二十三才にして大気の重さに関するもろもろの現象を明らかにして古代自然学の大きな誤謬の一つを打破し、ほかの人ならばやっと一人前になり始める年頃に、人間の科学の全体をきわめつくしてそのむなしきを悟り、思いを宗教に向けた。この時以来三十九才をもって死ぬまで、つねに病弱でありながら、後にボシュエやラシーヌの語った国語を定め、最も強い推理と最も完全な諧謔との模範を示し、最後に、病気の短い絶え間に、気晴らしのために幾何学の最高の問題の一つを解き、また人間と神とに関する思想を神に書きつけた。このおそるべき天才の名はブレーズ・パスカルであった。」(シャトー・ブリアン)
「十二才にして棒と輪とで数学をつくりだし」と記されている意味は、妹ジルベルト・ペリエ夫人の『パスカル氏の生涯』に記される有名な逸話である(田辺訳p520,521)。この出来事一つ見ても彼がいかに天才であったかがわかる。彼は十六才で「円錐曲線試論」で華々しくサロンに登場した。当時の学問研究の場は貴族たちの催すサロンであった。そこは社交の場であり、高級な趣味としての科学研究の場であった。十九才の「機械」とは彼が発明した史上初の計算機のことであり、彼はこの宣伝のために国王たちに手紙を出している。二十三才になると彼は真空が実在するかいなかという問題に取組み、実験的方法をもって真空の実在を証明した。それは古代アリストテレス以来の「自然は真空を嫌悪する」という誤謬を打破したものであった。
パスカルの信仰
「最初の回心」1646年1月父エチエンヌの大腿骨脱臼治療のために、兄弟の外科医デシャン兄弟を三か月自宅に泊めた。彼らがポール・ロワイヤル運動の流れをくむ熱心な信者であった。その影響でブレーズがまず新しい信仰に目覚め、ついで彼の伝道で妹ジャクリーヌも改心し、父、姉夫婦をもこの新しい信仰に導いた。ポール・ロワイヤル運動とはジャンセニスムと呼ばれる信仰運動で、その内容はアウグスティヌス主義の復興でありきわめてプロテスタント信仰に近いものであった。それで後に、このジャンセニスムはジェズイット会の激しい攻撃を受けて壊滅させられてしまう。
「世俗時代」:1651年から54年十一月まで。51年父エチエンヌの死。52年最愛の妹ジャクリーヌはポール・ロワイヤル修道院に入ってしまう。父の死後、パスカルは計算機の特許を取ったり、スウェーデンのクリスチナ女王に献呈したり、数学者、物理学者発明家としてエギヨン侯爵夫人のサロンで「アルキメデスの再来」と称さんされたり、フェルマとともに確率論を始めたりする。パスカルはサロンの寵児であった。
「決定的回心」しかし、ひとたび味わった熱烈なキリスト信仰はやがて、彼の内によみがえる。1954年9月ころからの煩悶の様子がジャクリーヌが姉ジルベルトに宛てた手紙の中に見える(前田p49)。そして、決定的回心が訪れる。それを記すメモリアルはパスカル死後、召し使いが彼の胴衣の裏に厚くなっているところがあるのを見つけて、不思議に思ってほどいた所、個人自筆の羊皮紙と紙片各一枚が折りたたんで入っていたのである。羊皮紙は紙片の清書であった。彼が自分の決定的回心の体験を常に思い起こすために縫いこんであったものである。
メモリアル(覚え書き)
キリスト紀元1654年 11月23日月曜日、・・・夜十時半頃から12時頃まで。
火
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
哲学者や、学者の神ではない。
確かだ確かだ、心のふれあい、喜び、平和、
イエス・キリストの神。
「わたしの神、またあなたがたの神。」
「あなたの神は、わたしの神です。」
この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。
神は福音書に教えられた道によってしか、見いだすことができない。
人間のたましいの偉大さ。
「正しい父よ、この世はあなたを知っていません。
しかし、わたしはあなたを知りました。」
よろこび、よろこび、よろこびの涙。
わたしは神から離れたいた--、
「生ける水の源であるわたしを捨てた」
「我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
「どうか、永遠に神から離れることのありませんように--、
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることであります。」
イエス・キリスト
イエス・キリスト
わたしは、かれから離れていた。彼を避け、彼を捨て、彼を十字架につけたのだ。
ああ、もうどんなことがあっても、かれから離れることがありませにょうに。
彼は福音書に教えられた道によらなければ、とどまることを望まない。
何もかも捨て去り、心はおだやか。・・・・
イエス・キリスト、そしてわたしの指導者に心から服従する。
地上の試練の一日に対して、永遠の喜びが待っている。
「わたしはあなたの御言葉を忘れません。」 アーメン
1. 無 限 の 空 間 の 永 遠 の 沈 黙 ---コスモスの崩壊---
「これをおしつぶすのに、宇宙全体はなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。」(L200,B347)
パスカルは「私」を押しつぶすのはなぜ宇宙であると言っている。次のような断章もある。
「この無限の空間の永遠の沈黙は、私に恐怖を起こさせる。」(L201,B206)
「人間の盲目と悲惨を見、沈黙した宇宙を見詰めるとき、人間が何の光も持たずただ独り放置され、いわば宇宙のこの一隅に迷い込んだように、誰が自分をそこに置いたのか、自分は何をしにそこに来たのか、死ぬとどうなるのかをも知らず、あらゆる認識を不可能にされているのを見るとき、私は眠っている間に荒れ果てた恐ろしい島に連れてこられて、目覚めてみると、そこがどこなこかわからず、そこから脱出する手段もない人のような、恐怖に襲われる。・・・。」(L198,B693)
「・・・それゆえ、人間は全自然を、その高くみちみちた威容のままに熟視するがいい。人間は自分を取り巻いている地上のものから、目を離すがいい。宇宙を照らすための永遠の灯火として置かれているあの輝かしい光を仰ぎ見るがいい。この天体の描く巨大な軌道に比べるならば、地球も一つの点としか見えないであろう。しかるに、この巨大な軌道といえども、大空をめぐるもろもろの天体が取り巻いている軌道にくらべるならば、きわめてささやかな一つの点にすぎないことに、人間は驚くがいい。・・・我々が生む者は、事物の実在に比べれば、アトムでしかない。事物の実在は、いたるところがその中心でありどこにも周辺がない一つの無限の球体である。・・・人間は無限のうちにおいて何者であろうか。」(L199,B72)
「誰が私をこの世界に置いたのかを私は知らない。世界が何であるか、私自身が何であるかを私は知らない。私はすべての事物について恐るべき無知の中にいる。・・・私は私を取り巻いている宇宙の恐ろしい空間を見る。私は私がこの広大な広がりの一隅に結びつけられているのを見出す。しかも、私はなにゆえ私がかしこではなく、ここに置かれているのか、何故、生きるために私に与えられているこのわずかな時間が、私に先立つすべての永遠と私のあとに続くすべての永遠のなかの他の地点に指定されずに、この地点に指定されたのかを知らない。私はあらゆる方向に無限を見るばかりである。この無限は私を、一つのアトムとして、一瞬ののちには去って再び帰らない一つの影として、包んでいる。・・・」(L427,B194)
なぜパスカルは宇宙が私を押しつぶすと言い、恐怖を感じているのだろうか。この背景には、中世から近世への宇宙観の変革があった。すなわち、価値の階梯的秩序としてのプトレマイオス的なコスモスとしての宇宙観から、「無限の空間」としての宇宙への変革である。これを「コスモスの崩壊」(アレクサンドル・コイレ)という。中世まで宇宙は「有限で閉ざされた、階層秩序を持つ全体としての世界」と見られていた。「その全体の中では、暗く重く不完全な地(球)からより高い完全性を持つもろもろの星と天球に至るまで、価値の階梯が存在の階梯と構造を決定している」ものであった(コイレp15)。いわば中世において宇宙は存在の意味についてペラペラとしゃべっていたわけである。
ところが、近代天文学は宇宙は無限の空間であると教えるようになった。つまり、宇宙は「基礎的な成分と法則の同一性によって結ばれ、そのなかではこれらすべての成分が存在の同一レベルに位置付けられる無際限の宇宙、さらには無限の宇宙が登場した」のである(同)。等質の無限の宇宙のなかでは、宇宙から人間は自己の存在の意味を聞き取ることはできない。「無限の空間の永遠の沈黙」がパスカルを恐怖に陥れたとはそういう訳である。
「無限の空間の永遠の沈黙」とは、言い換えれば、<等質の無限のなかで、個物は無意味となる。>ということである。敷衍して考えるならば、デカルト以来の近代合理主義の還元主義がもたらす人間疎外をこの断章は予示している。還元主義的思考とは、物事はそれを成り立たせている諸要素にバラバラに分けていけば、その本質がわかるという考え方である。
還元主義者は「~は~でしかない」という。つまり、等質の無限のなかに個物を埋没させてしまう考え方である。それは「人間はたましいが支配する機械でしかない」(デカルト)からさらに、「魂などは実在せず、意識もまた脳内の化学変化や電気信号でしかない」という考え方へと進む。人間機械論である。「業績主義」「偏差値教育」の背後にはこうした人間観がある。巨大な機械の一つの部品でしかない人間は、要素還元主義から生じている。物質という等質の無限の中で、人間は無意味となってしまうのである。無限の空間は私の存在の意味について、何も語らないのである。
2. 気 晴 ら し --自己の悲惨から目を背ける--
パスカルは、神を見失った人間が意味のない悲惨な存在であるという現実をごまかすために、様々な気晴らしをしているのだと指摘する。
「気晴らし。人間は、死、悲惨、無知を癒すことができなかったので、自己を幸福にするために、それらをあえて考えないように工夫した。」(L133,B168)
「それらの悲惨にもかかわらず、人間は幸福でありたいと思う。幸福でしかありたいと思わないし、またそう思わずにはいられない。だがそれにはどうしたらいいのだろうか。それを成し遂げるためには、人間は自ら不死にならなけらばならないであろう。だが、それはできないことなので、彼は死や悲惨をあえて考えないように工夫した。」(L134)
「気晴らし。私は、人間のさまざまな動揺、人間が宮廷や戦争において身をさらす危険や労苦、そこから生じる幾多の争いや情欲、大胆で時にはよこしまな企図などを、ときおり考察してみたが、そのとき私は、人間のあらゆる不幸が一室にじっと休息していることができないという、この唯一のことから来るのを発見した。・・」(L136)
現代に適用するならば、合理主義による人間疎外の典型は、偏差値教育であろう。人の価値を偏差値という数値によって測れるかのように見る風潮。つまり人間をより良い点数を取るためのロボットとみなしているのである。より高い得点をするのはよいロボットであり、低い得点しかできないのはボロのロボットということになる。
そのような人間疎外からのがれようとして、ギャンブル、ドラック、オカルトに走る青年たち。彼らは合理主義の考える世界には自分の生きる場を見いだすことができないので、「夢」の世界に何か意味あることを捜しているのである。考えることそのものをやめるためだろうか。まともに「考える」ことによっては人は無意味になるから、「感じる」ことのみに走るのであろう。
キリスト教思想家フランシス・シェーファーが『理性からの逃走』という書物であきらかにしたのはこのことである。理性の立場では人間は死んだということになる。そこで非理性の立場で真の自由は狂気にあるというのだ。
宇宙ではなく神の声に聴く
この無限の宇宙のなかで人間とは何者なのか。宇宙を合理主義的・科学的に探究してもそれは見えてはこない。人間は一つの機械でしかないということになる。では、どこに私たちの生きる意味があるのか。宇宙の中に意味をさがしてもそれを見いだすことはできない。そうではなく、宇宙を造り、その中に私たちを置いたくださった創造主の声に聞くことをおいてほかはない。その神とは哲学者たちの理論上の仮説としての神ではなく、生ける人格神、すなわち「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」である。
「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とはいったい何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせられました。」(詩篇8:3-5)
人間は、創造主である神の似姿として造られた。この創造主との人格的交わりにおいて人は人たりうるのである。
3. 考 え る 葦ーデカルトのコギトと対比して
なぜ現代人は考えることから逃避をするようになったのか。むしろ「感じる」ことに走るのだろうか。理性を麻痺させる音楽、ドラッグ、コンピューターゲーム、新新宗教がなぜはやるのか。それは、近代の合理主義における「考える」ことが行きづまってしまったからである。近代合理主義での考えるありかたでは、人間は生きる場がなくなってしまった。近代の合理主義の根っこにあるものは、デカルトである。デカルトにおける「考える」ことと、パスカルにおける「考える」ことは、どちらもフランス語でいえば「パンセ」なのだが、その内容は天と地ほども違っている。ところが、それがしばしば書かれたテクストに基づいて理解されず、あまりにも誤解されているので、ここに明らかにしておきたい。
(1)デカルトの「我思うゆえに我あり」・・・創世記3:5
ルネ・デカルト(1596-1650) フランスの数学者、哲学者。解析幾何学の創始者、近代哲学の父。
「良識はこの世でもっとも公平に配分されているものである。・・・むしろこのことは、正しく判断し、真偽を弁別する能力-これがまさしく良識、もしくは理性と呼ばれているところのものだが・・」『方法序説』
デカルトはスコラ的教育を受け、これらは不確実な知識しか提供しないと批判して幾何学を理想とする直観と演繹による新たな科学的方法を提唱する。彼が幾何学を理想とするのは、明晰判明な公理から演繹することによって、真理の体系を構築できるので、そこには誤りが入りえないと考えたからである。
デカルトは一切を方法的懐疑によって疑ってのち、最初の確実な知識つまり公理として「わたしは考える、だからわたしは存在する。」<je pense donc je suis.>仏 <cogito ergo sum.>羅・・・を得た。そして、この公理から演繹によって、すべてを正しく知ることができると構想したのである。
そして、彼は「考える私」を全哲学の基礎とする。これは恐るべき主張である。神が存在し、神が一切をあらしめていらっしゃるということが、一切の基礎であるというのに、彼は「考える私」を神の位置に据えたのである。理性の自律と傲慢。これは近代合理主義思想の典型的な姿である。このような理性の傲慢は、最も本質的にはその根を創世記第3章のへびの誘惑に含まれている。「あなたは神のようになれるのです」
(2)パスカルの「考える葦」
これに対してパスカルは言う。
「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学のなかで、できれば神なしにすませたいと思った。だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初のひとはじきをさせないわけにはいかなかった。それがすめばもはや彼は神を必要としない。」LIII-2
つまり、デカルトは一応自分の哲学の体系のなかに「神」を持ち出すが、それは彼の哲学を満足させるための道具にすぎないというのである。デカルトのほんとうの神は、自分の造りあげた哲学体系であり、デカルト自身なのである。
「イエス・キリストなしに神をもつ哲学者たちを駁す。哲学者たち。彼らは、神のみが愛せられ賛美されるに値する唯一のものであると信じている。しかも、彼らは自分たちが人々から愛せられ、賛美されることを欲した。彼らは自己の堕落を認識していない。」(L142,B463)
ではパスカルは考えることについてどういうのか?
「それゆえ、我々のあらゆる尊厳は思考のうちに存する。」(L200,B347)
「思考が人間の偉大をなす。」(L759,B911)
一見すると、人間の理性能力をデカルトと同様、賞賛しているように見えるが・・。なにが違うのだろうか。
a.理性の限界をわきまえる
「理性の最後の一歩は、理性を超える事物が無限にあるということを認めることである。それを認めるところまで至りえないならば、理性は弱いものでしかない。」(L188)
「理性の堕落は、かくも多くの異なった不条理な風習によって明かである。人間がもはや彼自身で生きるものでなくなるために真理は到来しなければならなかった。」(L600)
「理性の服従とその運用。そこに真のキリスト教がある。」(L167)
「同様に、私は永遠でも無限でもない。しかし、自然のうちには永遠にして無限なる必然的存在があるということを私は知っている。」(L135)
これらの断章からわかるように、パスカルは理性の限界、人間の限界をわきまえている。この点、デカルトとはちがっている。
b.自分が「ひとくきの葦」にすぎないことを考える
「そこ(よく考えること)に道徳の根源がある。」(L200,B347)
この断章が示すことは、パスカルにとって「考える」ことはいわゆる学的なことだけではなく、「道徳(モラル)」つまり生きること全体にかかわることであるという認識である。デカルト的理性は、「三角形の内角の和は180度」といった分析・論理的な機能を意味していて、それは生きることと、とりあえず切り離されている。そういう理性によって世界を分析すると、当然のことであるが、伝統とか美とか道徳といったことは意味のないこととなってしまう。そこでデカルトは自分の思想には非常な危険性があることに気づき、「暫定道徳」を立てたのであった。つまり、完全な哲学体系ができるまでは、旧来の伝統・文化といったことを暫定的に重んじておけ、という指示である。だが、それはデカルト的方法の本質的欠陥なのである。だが、パスカルのパンセ(考えること)はデカルトのような極度に狭いものではなく、生全体を考えることを意味している。
「考える葦。私が私の尊厳を求めるべきは、空間に関してではなく、私の思考の規定に関してである、いかに多くの土地を領有したとしても私は私以上には大きくはなれないであろう。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって、私は宇宙を包む。」(L113,B348)
「思考が人間の偉大をなす。」L759
「人間の偉大は、人間が自己の悲惨なことを知っている点において、偉大である。樹木は自己の悲惨なことを知らない。それゆえ、自己の悲惨を知るのは悲惨なことであるが、しかし人間が悲惨であるということを知っているのは、偉大なことである。」L114
パスカルが、人間が考えることにおいて偉大であるというのは、その理性でもって万物を支配したり、あるいは才覚をもって金儲けができるからではない。人間が考えることにおいて偉大であるというのは、人間が自己の悲惨を認識することができるからである。
c.傷んだ葦をも
人を「葦」と呼ぶ典拠は聖書にある。
「これは預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。
『これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者、
彼は異邦人に公義を宣べる。
争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。
彼は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、
公義を勝利に導くまでは。
異邦人は彼の名に望みをかける。』」(マタイ12:17-21)
イエス・キリストは傷んだ葦のごとき弱々しい人間存在をも折ることなく、助け支えたもうお方である。パスカルは、このお方の恵みを知るにいたるために、自らの弱さ、罪深さを考えるのである。
結 論
考える葦。それは自己の悲惨を自覚し、キリストのあわれみのもとにある人間存在を意味する。19世紀末に至るまで近代のほとんどの思想家たちは、人間理性の偉大さの夢に酔っていた。そして二十世紀(現代)にいたって、人間理性を賛美する行き方が限界につき当たってしまったのである。しかし、近代の始まりにあってデカルトに対峙したパスカルは、デカルトに勝るとも劣らぬ科学的洞察力をそなえつつ、近代主義がもたらすであろう人間疎外を予見していた。
しかも、パスカルはひとくきの葦にすぎぬ自己を知ると同時に、これを認識することのできる人間を偉大であるといいえた。なぜか。それは、自己の悲惨を知ることが、その傷ついた葦を折ることもない、救い主キリストを彼が知る道であったからである。
「心の貧しい者は幸いである。天の御国はその人のものだからです。」マタイ5:3