「あなたは神のようになれる」という蛇の誘惑によって善悪の知識の木の実を食べて以来、人間は理性において神のようになろうとする欲望にとりつかれた。それは、神の主権を拒否して、自ら神のようになって、神によらず自律的に世界を説明できる者となりたいという願望である。それは、ヨーロッパの近現代思想の流れにおいて、明瞭に現れている。
17世紀までは、一部を例外として、大方の人々は聖書に基づく有神論的世界観というパラダイムの中に生きていたので、神が無から万物を創造し、これを通常摂理と特別摂理をもって治めると信じていた。ゆえに、聖書を読むにあたっては、聖書に記録された啓示の出来事や奇跡は、書かれている通りに、神が行われたこととして受け止められた。
しかし、18世紀に入り啓蒙主義が台頭すると状況は大きく変わる。チャーベリーのハーバート、トーランド、トマス・ペイン、トマス・ジェファソン、スピノザといった人々の理神論が幅を利かせるようになったのである。理神論者にとって神は非人格的存在であり、その神は世界を創造した後は、世界に奇跡や啓示など特別摂理をもって介入することはないとした。それゆえ世界はそれ自体の法則に基づいて運営されているので、人間はこの世界を自らの理性によって自律的に説明することが可能であると信じたのである。
同世紀、啓示を全否定するわけではないが、理神論の影響を受けて聖書を再解釈した立場は啓蒙主義キリスト教と呼ばれる。彼らは理神論者と同様、歴史における超自然的啓示を批判し、キリスト教信仰を贖罪宗教ではなく道徳として捉える。たとえば、ジョン・ロック、レッシング、カントといった人々である。ロックを理神論だとするむきもあるが、彼の本を読めばそれは言い過ぎである。ロックは奇跡を否定せず、キリストの復活を歴史的事実として主張し、自身の主張に関して聖書に多く依存している点で、典型的理神論とは異なっている。
19世紀から今日に至るシュライエルマッハーに始まる自由主義神学には啓蒙主義的な合理主義から、キリスト教の神秘的側面を守ろうとしたロマン主義的な感情や主観性の強調といった性格があるものの、その認識の原理はカントの認識論的枠組みを継承している。だから近代聖書学は聖書の成立を神の特別摂理としての啓示ではなく、世界内の文化現象として説明することが学問的にすぐれたことであると信じて疑わない。ある人々は創世記の創造記事をバビロン神話から生じたものとして解釈し、ある人々は創造記事をカナンの神話から生じたものとして解釈し、ある人々はヨハネ文書をヘレニズム的背景から生じたものとして解釈した。近年は、新約聖書を第二神殿期のユダヤ教から生じたものとして解釈することが流行している。
19世紀には進化論を利用して創造主を否定する潮流が強まり、無神論が幅を利かせるようになる。ダーウィン自身は不可知論者であって無神論者ではなかった。当時、欧米において無神論を公然と唱えることは相当な抵抗があって、フランス革命期の二、三に無神論者を見るのみであった。だが、やがて科学崇拝主義の潮流が強くなって行き、ついに公然と無神論を唱えるフォイエルバッハ、マルクス、ニーチェらが登場する。神に背いた人間知性は、まず18世紀に理神論によって、神が創造した世界に神が介入することを拒否し、ついで19世紀、そもそも神などは存在しないのだと主張するようになったのである。
20世紀になると、二つの世界大戦による西洋文明の自己破壊と、世界には西洋文明だけでなく様々の文化と価値観があるという文化人類学的知見によって、<理性と言語の普遍性>に対する疑いが生じ、ポストモダニズムが登場する。「神のようになり」すべてを自律的に知るために頼って来た理性が実は普遍的ではないと考え始めたのである。理性によって普遍的な真理を知りうるとは信じられなくなったので、多元主義・相対主義という思潮が登場し、その影響を受けて、宗教的包括主義、そして宗教的多元主義が出現する。また、近代聖書学がデカルト由来の要素還元主義によって、ひたすらテクストを資料に細分して来歴を明らかにすることに集中してきたことへの反動として、テクストをありのままに受け取って解釈しようという構造主義が登場する。さらにテキストの来歴に対する無関心が昂じて、解釈とはテクストの執筆者の意図を読み取ることではなく、テクストの読者がどう読むかが大事であるという考えになり、読者の主観次第で意味が生成されるというポスト構造主義まで登場する。「インターテクスチュアリティ」などという連想ゲーム的聖書解釈は、理性と言語の普遍性に対する信頼が崩壊し、その反動がポストモダニズムの聖書解釈法の典型である。
我々が聖書を正しく読み取るには、聖書的な有神論のパラダイムを前提としなければならない。聖書は、神は無から万物を創造し、これを通常摂理と特別摂理をもって統治しておられるという有神論の前提をもって解釈しなければならないということである。神は聖書を啓示するにあたって、その時代のヘブライ語やギリシャ語という言語や文化を器として、それに啓示をのせて提供してくださった。神は啓示において文化を用いるが、文化に縛られないのである。神の啓示は文化との連続性があるが、断絶している。ゆえに、この断絶こそ啓示の固有性であり、そこにこそ聖書解釈において注目すべきポイントがある。その断絶を無視して文化的起源に還元することが近代聖書学の欠点である。