「ダニエルの70週」の中の、ダニエル書9章25節,26節aの翻訳には大きく内容の違う二つの立場がある。筆者のおよそ専門外のことなのだが、大学生だった何十年も前から気になっているところであるので、ここにメモしておく。
新改訳2017
25,それゆえ、知れ。悟れ。エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが七週。そして苦しみの期間である六十二週の間に、広場と堀が造り直される。26,その六十二週の後、油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない。
口語訳聖書
9:25 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。9:26 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。
2017は中世のユダヤ教徒のマソラの学者たちが付けた本文の記号、区切りにしたがった訳文であるが、2017と同じように訳しているのは英訳ではESVなどわずかであり、口語訳と同じように訳しているのは文語訳、新共同訳、NIV,KJB,NKJVなど圧倒的多数であることは、Bible Hubで簡単に確認できる。
2017のように「神殿再建命令が出されてからメシアが来るまでが7週」とした場合、26節の「その62週の後、メシアが断たれる」というのがおかしなことになる。「週」は7年を意味するから、メシアは少なくとも434年も生きてから断たれることになってしまうからだ。だからマソラ本文にしたがった場合、25節のメシアはバビロン捕囚から帰還後の指導者ゼルバベルか油注がれた祭司かキュロス王かだとして、26節のメシアはまた別の人物であるという、たいへん不自然な読みをしなければならなくなってしまう。
ヘブライ語本文では「7週と62週」と続いている。マソラ学者はあえて「7週」と「62週」を断ち切ってしまったのである。なぜ、そんな不自然な区切りをつけたのか。それは、7週と62週を断ち切ることによって、神殿再建命令から69週後に登場する人物がメシアであることを覆い隠したかったからであろう。神殿再建命令から69週後、つまり、69×7=483年後に登場するメシアとは、ナザレのイエスである。
マソラ学者たちが正確な旧約聖書本文を確定し保存しようとした熱心さ誠実さは驚くべきものがあり、彼らは啓示された文字を一点一画ゆるがせにしなかった。だが、本文は、特にメシア預言に関するところは、鵜呑みにしてはいけないと私は思う。ユダヤ教徒であるマソラ学者たちは、イエスをメシヤと認めるわけにはいかなかったのだから。
この件、刊行会に質問メールを出してみた。返事が来るだろうか。
<追記2025年9月27日>
今朝、ダニエルの70週について、鞭木由行氏が『釈義と神学』(第48回夏季研修講座「聖書から考える終末」2024年)に書いておられることをネット上で発見した。氏は、ダニエル9章25節の件の箇所を「エルサレムを再建せよとの勅令の公告から油注がれた者、君主までが7週と62週」と訳している。
そして「マソラ以前のTheodotian,Vulgate,Syriacなどの諸訳はこの区分を取らず、むしろ7週と62週を一緒にしている。それゆえこのAthnahはマソラ学者がキリスト教のメシア的解釈を避けようとした結果ではないかと推測することもできる。」と書いておられる。そして「筆者は7週でエルサレムが再建され、その後62週でメシアが現れると考える。そうすれば、7と62に区切った意味も明確であり、同時に、メシアは勅令の69週後に来ることになる。」
やはり、専門家から見ても、7週と62週を区切って、「エルサレム再建命令から7週にメシヤが来る」というのは妥当ではないということを知って、意を強くした次第である。
この個所は、メシヤに関する重要箇所であるから、2017訳の修正を公にしていただけないものだろうか。

