苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

NTライトの義認論の誤りの原因は、聖書解釈の方法論的誤りである

(再掲載記事)

1 ライトの新約聖書の読み方

  日本長老教会によるN.T.ライトに関するレポートで、ライトの聖書理解の手順が示されている(37ページ)。ライトは、聖書のある概念を理解するには、まず第二神殿期のユダヤ教文献を読むことが必須であるとする。

①まず第二神殿期のユダヤ教文献においてそれがどのように教えられているのかを調べ、

次にユダヤ教文献の概念や理解が使徒たちの理解と同じてあると仮定し、これを新約聖書の解釈に適用する。

③そして最後に旧約聖書を開き、第二神殿期のユダヤ教文献および新約聖書とのつながりを確認する。

 一見もっともらしく見えるこの新約聖書の読み方は、ほんとうに正しいのだろうか?長老教会の文書も「次にユダヤ教文献の概念や理解が使徒たちの理解と同じてあると仮定し」と書いているように、ここが怪しい。

 

 2 ある哲学教師から教わったこと

 私は大学時代、国文から哲学科に転じてもろもろの哲学書を読み始めた時に、ライプニッツパスカルサルトルなどを研究しておられたI先生に「これから哲学書を読んで行くにあたって、哲学用語がわからないので、何か哲学辞典を手に入れたほうがいいのでしょうか?」と質問したことがある。するとI先生は、「いや、哲学辞典には通り一遍のことしか書かれていないものです。哲学者というのは、自分の思想を表すために、その用語に独特の意味を込めるものなのです。ですから、哲学辞典は要らない。自分の脳をしぼって、その哲学者の書物を繰り返し読んでいくことによって、その思想を読み取り、哲学者がその用語に託した意味を理解することが大事です。」とお答えになった。

 ある語というものは、文脈の中で意味を獲得しているものである。その同時代文化の中で話題となっている語がどのような意味で一般に用いられているかを調べて、参考になることは確かにあろう。たしかに文章が公的表現である以上、少なくとも表面的な意味では時代文化とその書物の間で共通のものがあるはずである。しかし、それは表面的なことにとどまる。深いところの意味を正確に読み取ろうとするならば、前後の文脈の中で、次にその書全体の中で何を意味しているかを読み取ること、さらに同じ著者の書いた他の書物の中でその語がどのような意味で用いられているかを読み取ることが必要である。その哲学思想が斬新なものであればあるほど、そこで用いられる語の意味は同時代の文化の中で用いられている場合の意味とは大きく隔たっているのである。たとえば、「良識(ボン・サンス)」という用語の意味は世間的な意味と、デカルトが用いる場合の意味とは相当に隔たっている。デカルトが「良識」という語で意味するところは、デカルト自身の書物を丁寧に読めば、「理性(raison)」を意味している。しかも、幾何学的推論を支えるような論理的理性の意味であって、普通に言う良識とはかなり異なっている。

 その書物自体における用語法、その著者における用語法を釈義の第一の基準とすることは、哲学書を読む場合に限らず、書物全般を読む場合に大事な原則である。

 

3 ライトの新約聖書解釈法の原理的間違い

 「1」で述べたライトの新約聖書解釈の方法は、上に述べた釈義原則から逸脱している。例えば「罪」という語についてライトが、第二神殿期のユダヤ教文献を調べた結果、それはイスラエル民族が神に対する不信の罪を犯したことを意味し、バビロン捕囚以来、イスラエルが異邦人の支配下に置かれていることが主からの罰を意味していたのだということを知った。つまり、ユダヤ人はとってバビロン捕囚はまだ終わっていないという意識を持っているというのである。そこでライトは第二神殿期における罪観とは、神に対する民族的な罪であって個人的なものではないと考えた。そして、ライトは民族的・共同体的な意味でのみ新約聖書における「罪」、特にパウロ書簡における「罪」という用語は理解されなければならないと考えた。

 さらに、ライトは「罪」はユダヤ民族の神に対する民族的罪であるということから推論して、<義認とは神がイスラエルの民を義と認めることである>と考えるようになった。

 だが実は、わざわざ当時のユダヤ教文献をさがすまでもなく、福音書を読んでみれば、イエスの周辺のイスラエルの民の中に一般には、ライトがいうような民族的な罪観と贖い観が多く見られる。福音書使徒の働きに登場するユダヤ人たちは、ローマ帝国支配下に置かれている自分たちは、神の懲罰の下に置かれているのだと意識していた。

 老シメオンは「イスラエルの慰められることを待ち望み」(ルカ2:25)、老アンナは「エルサレムの贖いを待ち望んで」(ルカ2:38)いたし、イエスを王として担ぎ出そうとする民衆もイスラエルの民族的・国家的回復を待望していたし(ヨハネ6:15)、イエスの弟子たちもイエスが王となりイスラエル王国が復興することを待望していた(マルコ10:37、使徒1:6)。彼らが、イスラエル民族が神の懲罰の下にあるという意識を持っていたのは、申命記士師記をはじめとして、イスラエル背信的行為に走るなら、神は異邦人によってイスラエルに懲罰を与えるという思想と実例が書かれているから当然のことである。ライトが第二神殿期のユダヤ教文献において見出した罪理解は、当時のユダヤ社会の人々が一般に持っていた罪理解なのである。

 ところが、主イエスがもたらした福音、使徒パウロが啓示によって知った福音における罪の意味と贖いの概念は、第二神殿期の一般的な民族的な罪観・贖い観と異なっていた。異なっていたから、身近な主イエスは弟子たちからさえなかなか理解されず、ユダヤ社会で物議をかもした。

 カペナウム宣教で、主イエスが「友よ。あなたの罪は赦された。」(ルカ5:20)と宣告した相手は、イスラエル民族でなく一人の中風の男、個人だった。そして主イエスは彼に向かって、「子よ。あなたの罪は赦された。」と権威をもって宣言なさった(マルコ2:1—12)。主イエスがたとえ話に持ち出した一人の取税人は、宮にやって来ると、目を天に向けようともせず、胸をたたいて「こんな罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18:13)と言った。彼はイスラエル民族の罪でなく己の罪を神の前に嘆いている。福音書に登場する罪に苦しむ人々は、ライトがいうようにイスラエル民族の国家としての罪ではなく、個人としての神の前の罪に苦しんでいる。そして、主イエスはこの取税人は神の前に義と認められて帰っていったとおっしゃる(ルカ18:14)。イエスにおいて、罪とはまず個人の神の前の罪であり、赦し・義認とはその個人に対する神の宣言なのである。

 また使徒パウロが、ローマ書1章18-32節で挙げるもろもろの罪とは「偶像礼拝、同性間性交、不義、悪、むさぼり、悪意、殺意、争い、悪だくみ、陰口、そしり、神を憎むこと、人を人と思わぬこと、高ぶること、大言壮語すること、悪事をたくらむこと、親に逆らうこと」とリストアップされるように、異邦人たちの犯すさまざまの個人的罪である。2章に入ると神の民を自認し異邦人を軽蔑しながら、陰で同じように盗み、姦淫など諸々の個人的罪を犯しているユダヤ人一人一人の欺瞞、偽善の罪を指摘している。そうして、パウロは異邦人もユダヤ人も併せて「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)と断じるのである。そうした個々人の罪からの贖いのために、イエス・キリストが宥めのささげ物として公に示され、それを根拠として個々人の罪が償われ、義と認められたのであると告げる(ローマ3:24,25)。

 以上のように、主イエスの罪理解と救いの理解、パウロの罪理解と救いの理解は、個人の罪ということと、その罪を神がゆるしてくださるということである。

 なぜ主イエスパウロの福音は、当時のユダヤ社会における一般的な罪理解と贖い理解とかけ離れて斬新なものだったのか。それはイエスの福音が当時のユダヤ教文化から生じたものではなく、天からの啓示だからである。パウロは言う。「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1:11,12)ヨハネ福音書はイエスについて言う。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(中略)ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:1,14)

 

4 同時代の言語・文化を参照する正しい聖書解釈

 同時代のユダヤ教文献との類似性から新約聖書を読むという方法は、N.T.ライトに限ったことではなく、近代啓蒙主義に立つ聖書学の普通の方法である。ただライトが奇妙なのは、彼は超自然主義者でありながら、近代啓蒙主義自然主義の方法を採用して矛盾を感じていないらしいことである。まあ考えてみれば、K.バルトもそうだったのだし、その追随者は山ほどいるのだから、さして珍しくはないかもしれない。

 近代聖書学とは、近代啓蒙主義に立つ哲学者が考えた世界観と認識論を前提とする聖書学ということである。啓蒙主義哲学者の世界観というのは、理神論的世界観ということである。彼らが考えた「神」とは、世界を自動機械として創造した後は、世界に介入することは一切しないという神である。カントの認識論のことばで説明しなおせば、人間の科学的認識が可能なのは感性と悟性をもってキャッチできる現象界の事柄に限られていて、神・魂・自由といった感性と悟性でキャッチできないものは人間の科学的認識の対象ではないということである。世界(現象界)は閉じた系であって自律しており、神による啓示もなければ奇跡もないという前提で聖書を読むのである。啓示がないとすれば、聖書各巻は、同時代の文化から生じたものだということになる。だから、同時代文化の色眼鏡をかけて、同時代の文化と類似したことはないかと捜しつつ、聖書各巻を読めば正しく理解できると考えるのである。ヘルマン・グンケルはバビロン神話との類似性、ある人はカナン神話との類似性の観点から創世記を読み、ブルトマンはギリシャ思想との類似性からヨハネ福音書を読み、NPPの学者たちは第二神殿期ユダヤ教との類似性からパウロ書簡を読むわけである。

 ところで、およそ書物というものは、その書物にふさわしい読み方をしなければ、正しくそれを読解することはできない。もし啓蒙主義哲学者の立てた理神論的前提が正しくて聖書各巻が同時代の文化から生じたものであるならば、同時代の文化との類似性を重んじて聖書各巻を理解するのが適切である。しかし、その前提が間違っており聖書各巻が神の啓示によって与えられたものであるとすれば、同時代の文化との類似性を重んじてそれを読もうとすれば、読み間違えてしまうことは必然である。

 ところが、聖書を読めば一目瞭然であるように、神は理神論の哲学者がいうような、英知界に閉じ込められているような死んだ神ではない。無から万物を創造し、これを摂理をもって治め、時にご自分が定めた自然法則を強化したり、あるいは停止したりして奇跡を起こし、さらに、自ら人となってこの世に住まわれ、死者の中からよみがえり、やがて世界を裁くために来られる生ける神である。したがって、理神論の死んだ神を前提として生ける神の聖書を読むことは、よみがえったキリストを墓の中に捜すくらい無意味である。主イエスは、ギリシャ哲学の影響を受けたサドカイ派の人々におっしゃったように、啓蒙主義哲学者に対しておっしゃるだろう。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。」(マルコ12:24)

 もっとも、啓蒙主義的世界観にすっかり染まったリベラルな神学者たちとはちがって、N.T.ライトが無からの創造や奇跡や受肉や復活や再臨を信じていないというわけではない。ただ彼の同時代ユダヤ教新約聖書解釈に用いる方法は啓蒙主義的世界観に拠っているのが、奇妙である。彼の中で矛盾していると言っているのである。

 神はどういう方法をもって啓示を与えられるかを食事に譬えて言えば、神は、同時代文化・言語という器に、ご自分のメッセージを載せて、差し出してくださる。ゆえに、聖書には同時代文化との類似性が見られるが(そうでなければ同時代の人に、とりあえす読んでもらいようがなかったので)、同時に、同時代文化・言語との相違性があり、その相違性にこそ神からのメッセージがある。したがって、同時代の文化・言語との類似性に執着すると、神からのメッセージを読み取ることができなくなる。

 また現代文化の観点から聖書を読もうとするのも不適切である。例えば、出エジプト記20章以降に律法の書があり、そこには奴隷に関する記述が出てくる。奴隷制がない現代の観点から、律法の書に記された奴隷制度を批判してもなんら得るものはないだろう。正しい読み方は、出エジプト記が書かれた同時代の周辺文化における奴隷の扱いと、律法の書における奴隷の扱いとを比較して、両者の間の相違点に注目するときに、神からのメッセージを読み取ることができるのである。

 以上のように、文化との関連で新約聖書を読むにあたっての避けるべき不適切な態度は、第一に現代文化の枠組みから安易に新約聖書をうんぬんすることであり、第二に新約聖書成立の同時代のユダヤ教文献との表面的類似から新約聖書を解釈することである。

 筆者は先に同時代資料を読むことよりも、聖書そのものを文脈をわきまえて、丁寧に読むことが何よりも大事であると書いた。それでもなお新約聖書を読む上で同時代資料を参考にしたいならば、次のような態度をもってしなければならない。同時代ユダヤ教との類似性を見つけたなら、「これでわかる!」と思い込まないで、頭を冷やして、両者の本質的な相違は何かを探求することである。そうすれば、文化から生じたのではない、神からの啓示としてのメッセージを読み取ることができる。パウロが「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」(ガラテヤ1:11,12)とまで言っている福音を、「いやいやパウロの教えは同時代のユダヤ教から受け、教えられたものなのだ」と前提して読もうというのは、愚かにもほどがある。