旧約聖書の原典はヘブライ語で記され、新約聖書はギリシャで記されている。だが新約聖書が記された当時、両者の橋渡ししたのが七十人訳旧約聖書(LXX)だった。新約聖書の記者たちが慣れ親しみ暗唱して、折々引用したのは、このLXXからであった。だから彼らが用いるギリシャ語の用語は、LXXの用法に基づいていると言ってよい。
聖書翻訳にあたっては、橋渡しとなったLXXを参照して、旧約新約における特に神学的用語の訳語の統一を図るならば、旧新約聖書をもっと統一的に理解できるのではないかと思う。たとえば、パウロ書簡における「義と認める」という表現である。
パウロは「義と認める」と邦訳聖書で訳される言葉を、ディカイオオーという動詞と、ロギゾマイ・エイス・ディカイオシュネーンという連語で表現している。(全部調べ尽くしたわけではないので、読者はご自分で研究してほしい)
たとえば、ディカイオオーという語が用いられているのは、ローマ書3章20節、24節である。
ローマ3:20「なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」
ローマ3:24「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」
一方、ロギゾマイ・エイス・ディカイオシュネーンという連語は、ローマ書4章3節、5節では、後者が用いられている。
ローマ4:3「聖書は何と言っていますか。『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあります。」
ローマ5:5「しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」
文脈から見て、ディカイオオーという動詞と、ロギゾマイ・エイス・ディカイオシュネーンという連語は同義で用いられている。パウロは、義認を意味するこの二つの表現をLXXに基づいて用いている。
デイカイオオーという訳語が用いられているLXXの箇所を少し紹介してみる。
出エジプト23:6 ,7「あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。 偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。」
申命記25:1 「人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを正しいとし、悪いほうを悪いとする判決が下されるとき、」
詩篇143:2 「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」
イザヤ5:23 「彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。」
他方、ロギゾマイ・エイス・ディカイオシュネーンという連語が用いられているLXXの箇所を2つ挙げてみる。
創世記15:6 「彼(アブラハム)は主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」
詩篇106:31(LXXでは105:31)「 このことは、代々永遠に、彼(ピネハス)の義と認められた。」
上のように旧約聖書では、ディカイオオーとロギゾマイ・エイス・ディカイオシュネーンは、「正しいと宣告する」「正しいとする」「義と認める」「正しいと宣言する」というふうに訳語はさまざまであるが、基本的に裁判官が被告に向かって宣告するという意味の法廷的な表現であることがわかる。これらすべての訳語をたとえば「義と認める」と統一するならば、パウロがローマ書やガラテヤ書で「義と認める」と言っていることの意味を正確に読み取るために、たいへん有益であるように思う。たとい聖書言語を学んでいない人であっても、旧新約の意味の連絡をすんなりと知ることができるからである。
もっとも、正直言えば、私はこれが法廷用語であることにかんがみるならば、「義と認める」よりも「義と宣告する」で旧新約聖書を統一するほうがさらに良いと思う。だが、義認という訳語が広く普及している現状を思えば、「義と認める」で統一するのが現実的であろう。実際に改めて見るても、問題はないと思う。
出エジプト23:6 ,7「あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。 偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を義と認めることはしないからである。」
申命記25:1 「人と人との間で争いがあり、彼らが裁判に出頭し、正しいほうを義と認め、悪いほうを悪いと認める判決が下されるとき、」
イザヤ5:23 「彼らはわいろのために、悪者を義と認め、義人からその義を取り去っている。」
「義と認める」に限ったことではないが、次の聖書翻訳にあたっては、LXXの旧新約聖書の用語の橋渡しとしての意義を重んじて、旧新約聖書の用語の統一を図っていただきたいと思う。新しい聖書翻訳は数十年後のことであろう。主の再臨が先かもしれないけれど、次の世代の翻訳者たちに心に留めておいていただければ、と願う。