ティモシー・ケラーの『センターチャーチ』を読んでいて考えたこと。近現代の教会の歩みにおいて、おおざっぱな言い方をすると、2つの福音理解がある。一つは宗教改革が強調した信仰義認、敬虔主義が強調した新生を福音の中心とする、個人の霊的救いを強調する流れである。神は聖なる義なる審判者であり、人間は罪人であり、人は神の前に罪赦されることこそ何より重要なことであるという福音理解である。「主イエスの十字架と復活を信じるならば、あなたの罪は赦され、死後、天国に行けます。」という来世主義的な傾向が強い。その聖書的根拠は、1コリント15章1—5節、ローマ書3章9-20節である。
他方に、アルブレヒト・リッチュルを始めとする近代聖書学の成果である、イエスが「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣べ伝えたことに根拠をおいて、「神の国(神の支配)」の実現こそ、福音であるということを強調し、この世界に社会正義を実現することこそ、教会の使命であるとする社会派、社会福音の流れがある。福音主義を自称するN.T.ライトも、神の国の福音を強調して、義認とは罪の赦しという救済論の課題ではなく、神の国のメンバーシップにかかわる教会論の課題なのだという。この流れでは、神の王国の強調、社会的貢献の強調という反面、聖なる神の罪に対する怒り、個人の神の前における罪の赦しということの重大さを軽視する傾向がある。
いずれが正しいのか。「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」のであるから、この点で新生・義認がまずは必須であるという点では、福音派が正しく、人間の罪を軽んじ、神の聖なるさばきを軽んじて来た社会派は間違っている。しかし、「神の国」を単に「死後の天国」のことであると捉えて、今の世における被造世界に対する責任を見失ってきたことについて、福音派は誤っていた。イエスは、「神の国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と祈れと命じられた。また、主イエスは「あなたがたは地の塩です。世の光です。」とおっしゃって、「天の塩、天の光」とはおっしゃらなかった。私たちはキリストにあって義と認められたばかりか、神の子=相続人とされたことをしっかり受け止めて、被造物のうちに神のみこころが成るために励むことこそ本来の道である。実は、キリスト教会は2000年の歴史の中で、両方を大切にしてきたのだが、19世紀に無神論的な共産主義運動が激しくなったため、福音派はそれへの警戒心から、社会的責任から手を引いてしまったのだった。1972年、ローザンヌ世界伝道国際会議で、その反省がなされた。