苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

創造の「契約」について

 聖書には創造から新天新地まで一貫して、神がその民と結ばれる契約があります。けれども、創造・善悪の知識の木の出来事について「創造の契約」とか「善悪の知識の木の契約」ということばを用いるのはいかがなものか?と疑問を呈する意見もあるようです。その理由は第一に、「契約(ヘブル語でベリート)」という語が創世記1,2章には出ていないこと(契約という用語の初出はノア契約です)、第二に、<「契約」ということばは「救い」に関することであり、創造・文化命令と関係しないから>ということです。ほんとうでしょうか?

 聖書が「契約」ということばを使うとき、その中身はなんでしょうか?アブラハム契約、シナイ契約に共通する主題は、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」です。この主題は、ダビデに対する約束にも含まれていますから、ダビデ契約ということもできます。これらの契約には、それぞれ特徴があります。

ノア契約は、世界の保持に関するものです。これはその後の歴史の展開の舞台を維持する契約です。
アブラハム契約は、約束の地(世界)の相続に関するものです。
シナイ契約は、約束の地(世界)に神が住まわれる幕屋と神とともに生きるための律法に関するものです。
ダビデ契約は、神殿と神の王国に関するものです。
そして、これらはキリストの契約に集約されて実現します。

 つまり、神の契約の内容は、<神が神の民とともに住み、約束の地(世界)に神の王国を建設すること>です。キリストにあって約束の地が世界に拡張され、世界に神の支配を行き渡らせるということ、つまり、神の王国の建設という創造の目的の遂行が契約の内容なのです。この点からすれば、創世記1章26‐28節や2章16,17節の被造物を神の御心に沿って支配することを求めたことは、まさしく契約の主題そのものです。

 「救い」ということを罪と悲惨と悪魔の支配からの解放という、「~からの解放」というネガティヴな捉え方だけでとらえるのは不十分で、「何の目的のために解放されたのか」というポジティヴな捉え方をする必要があります。私たちは罪と悲惨と悪魔の支配から解放されたのは、<神が神の民とともに住み、約束の地に神の王国を建設すること>です。こうして見ると、創世記1章、2章の神が人に地を相続させ、神の御心にしたがって地を支配させようとしたことと、ノア契約、アブラハム契約、シナイ契約、ダビデ契約と主題が完全に一致していることに気づくでしょう。したがって、「創造の契約」という表現を用いることは聖書にかなっていると言えます。