苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

原風景と美意識

 人の美意識、とくに風景に関する意識というのは、幼い日に過ごした環境にずいぶん影響される。もう十年ほど前にある数学者がそんなことを書いていたが、なるほどそうなんだろうと思う。宮村武夫先生が秋の信州に来られたことがあって、先生の旧友を訪ねるために車でお連れしたことがあった。秋の信州の山々は目を奪われるほどに赤、橙、黄にもみじして美しかったのだが、先生は風景にはまったく興味を示さず、ひたすらに神学の話をなさっていた。先生は墨田区あたりで幼少期を過ごされたのだと伺った記憶がある。奥さんも「主人はまったく美しい風景に関心を示さないのよ」と笑いながら話しておられた。
 私自身はというと、神戸市須磨区須磨寺町というところでそだった。家の前には大池と呼ばれる池があり、ボートが浮かんでいて、その向こうにはラクダ山と子どもたちが呼んでいた300メートルほどの山があった。海にも徒歩で20分ほどで出かけることができた。池の周りと須磨寺は当時、桜の名所だった。小学校は北須磨小学校といって、須磨離宮の向かい側だった。常に山々がそばにあり、森や林がそばにあった。友だちとわいわい出かけるのは三宮とか元町といった繁華街だったけれど、じっくり話をするのは須磨海岸を歩きながらとかだった。私にとっての原風景はあの須磨寺町なのだと感じる。だから東京のただただ家が並んでいるとか、ビルが並んでいるようなところでは息がつまってしまう。東京も下町みたいなところは、少しはほっとするけれど、やっぱり山や海が欲しい。

 今暮らしている苫小牧は、東西に長細い町である点で神戸に少し似てはいる。15分散歩すれば海に行けるし、20分歩けば森に行ける。山はあまりないけれど、樽前山を望むことはできる。神戸で十年ほど同じ屋根の下に暮らし、早く亡くなった叔母は結婚して埼玉の越谷に住んだのだが、あるときしみじみと「修ちゃん。どんな風景の場所に住むかによって、人生ずいぶん損得があるように思う。私は関東なら鎌倉に住んでみたい。」と言っていた。

須磨寺町 春