苫小牧福音教会 水草牧師のメモ

聖書というメガネで、神が造られた世界と人間とその歴史を見てみたら、という意識で書いたメモです。

エパタの出来事、創造の出来事の理解

「32人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。33そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。34そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。35すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。」マルコ7章32-35節

 世界は一定の法則によって営まれていて超自然的現象は起こる余地はないと信じ、イエス自然法則の支配下にある人間であると信じている者は、エパタの出来事は後年の信者たちがイエスを神格化するために捏造した文学的フィクションであると考え、フィクションに込められた意味を読み取るべきであると考えるか、あるいは、何とかしてこの聾唖の癒しの出来事を「科学的に」説明しようとして苦心惨憺する。 

 他方、イエスが万物を創造した、「ロゴスなる神」(ヨハネ1:1‐3)が人となって来られたお方であり、みこころのままに通常の自然法則を停止して特別なわざをなさると信じる者は、このエパタの出来事が記述通りに起こったことを理解する。また、預言者イザヤは、メシヤが到来すると盲人は目が開かれ、聾唖者は聞き、話すようになると預言していたが、その預言をイエスが成就させ、ご自身が待ち望まれたメシヤであることを示されたのだと理解する。

 自然主義に凝り固まって、それを自覚すらできない人は、前者が合理的で、後者は不合理だと断言するだろう。だが実際には、両者の違いは、自然主義と超自然主義という前提の違いなのである。イエスが無から万物を創造した主権者であるならば、盲人の目を開き、聾唖者をその権威をもって癒すことができるのは合理的なことであり、もしできないとすればそれこそ不合理である。

 神の被造物を支配するわざには二通りの方法がある。一つはご自分が造られた通常の法則を用いてなすわざであり、もう一つは通常の法則によらずに特別な方法なすわざである。神が通常の法則をもってなしたわざについては、通常の法則によってなされたものとして理解するのが適切である。神が特別な方法をもってなされたわざについては、信仰をもってそれを受け入れることが適切である。

 エパタの出来事は、預言者イザヤが言っているとおり、神が遣わしたメシヤがなす特別のわざであるから、これは信仰をもって受け入れることが適切なのである。これを自然主義的にーつまり神の特別な介入はあり得ないという前提をもってー解釈するのは愚かなことである。

 ところで、世界の創造は、特別な方法によるものであろうか?それとも、通常の法則によるものであろうか?へブル書著者は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(へブル11章3節)という。つまり、世界創造は神のことばによるという特別な方法でなされたのである。したがって、世界の創造は聖書に啓示されているとおり信仰によって受け入れるのが正しい認識の方法である。逆に世界の創造を、自然主義的にーつまり神の特別な介入はあり得ないという前提をもってー解釈するのは愚かなことである。それはちょうど、エパタの奇跡を文学的フィクションとして解釈したり、「科学的に」説明しようとするのと同じくらいナンセンスである。

 無神論者が、過去に世界が出現したプロセスについて、苦心惨憺して自然主義的に進化論をもちいて説明しようとするのは、致し方ないことである。しかし、有神論者がこれを自然主義的に説明しようとするのは、筋が通らない。